初級翻訳・アグニの神 第2話

アグニの神

」

「嘘をつくな!
今、その窓から外を見ていたのは、間違いなく娘さんの妙子さんだ。」

遠藤は片手にピストルを握ったまま、もう片方の手で隣の部屋の入り口を指さしました。

「それでもまだ意地を張るなら、あそこにいる中国人(ちゅうごくじん)を連れてこい。」

「あれは私の拾い子だよ。」
おばあさんは、やっぱりバカにするように、ニヤニヤと一人で笑っていました。

「拾い子かどうかなんて、一目見ればわかることだ。
お前が連れてこないなら、俺があそこへ行って見てやる。」

遠藤が隣の部屋へ踏み込もうとすると、とっさにインド人のおばあさんは、その入り口に立ちはだかりました。

「ここは私の家だよ。
見ず知らずのあんたなんかに、奥へ入られてたまるもんか。」

「どけ!
どかないと撃ち殺すぞ!」
遠藤はピストルを構えました。

いや、構えようとした、その時でした。
おばあさんが、カラスの鳴くようなキーッという声を上げたかと思うと、まるで電気ショックでも受けたみたいに、遠藤の手からピストルがポロリと落ちてしまったのです。

これには、勢い込んでいた遠藤も、さすがに肝を冷やしたのでしょう。しばらくの間、不思議そうに周りを見回していましたが、すぐにまた勇気を取り戻すと、

「この魔法使いめ!」と怒鳴りながら、虎のように fierce におばあさんへ飛びかかっていきました。

だけど、おばあさんもただ者ではありません。
ひらりと身をかわすやいなや、そこにあったほうきを手に取り、またもや掴みかかろうとする遠藤の顔めがけて、床の上のゴミをサッと掃きかけました。

すると、そのゴミが全部、火花になって、目だろうと、口だろうと、遠藤の顔にバチバチと焼き付いたのです!

遠藤はもう我慢できなくなり、火花の嵐に追いかけられながら、転がるように外へ逃げ出しました。

三

その夜の12時近く、遠藤は一人、おばあさんの家の前にたたずみながら、二階のガラス窓に映る炎の光を、悔しそうに見つめていました。

「せっかく娘さんの居場所を突き止めたのに、取り戻せないなんて残念だな。
いっそ警察に訴えようか? いや、いや、中国の警察がのんびりしてるのは、香港でさんざん懲りてるんだ。
もし今度も逃げられたら、また探すのが大変だ。
それに、あの魔法使いには、ピストルさえ役に立たないし、――」

遠藤がそんなことを考えていると、突然、高い二階の窓から、ひらひらと紙切れが落ちてきました。

「おや、紙切れが落ちてきたぞ、――もしかして娘さんの手紙じゃないか?」

そうつぶやいた遠藤は、その紙切れを拾い上げながら、そっと隠していた懐中電灯を取り出して、丸い光で照らしてみました。

すると、やっぱり紙切れの上には、妙子さんが書いたに違いない、今にも消えそうな鉛筆の跡がありました。

「遠藤さん。
この家のおばあさんは、恐ろしい魔法使いです。
ときどき真夜中に、私の体に、『アグニ』っていうインドの神様を乗り移らせるんです。
私はその神様が乗り移っている間ずっと、死んだみたいになっているんです。
だから、どんなことが起こるか分からないんですけど、おばあさんの話では、『アグニ』の神様が私の口を使って、いろんなことを予言するらしいです。
今夜も12時には、おばあさんがまた『アグニ』の神様を乗り移らせます。
いつもだと私は、いつの間にか意識が遠くなってしまうんですけど、今夜はそうならないうちに、わざと魔法にかかったふりをします。
そして、私をお父様のところに返さないと、『アグニ』の神様がおばあさんの命を奪うって言ってやります。おばあさんは、何よりも『アグニ』の神様が怖いんですから、これを聞けばきっと私を返してくれると思います。どうか明日の朝、もう一度おばあさんのところへ来てください。この作戦以外に、おばあさんの手から逃げ出す方法はありません。さようなら。」

遠藤は手紙を読み終わると、ポケットから懐中時計(かいちゅうどけい)を取り出して時間を確認しました。時計は、夜の12時5分前を指していました。
「もうすぐ時間になるな。相手はあんな魔法使いだし、お嬢さんはまだ子どもだ。よっぽど運が良くないと、――」
遠藤が言葉を言い終わらないうちに、もう魔法が始まったのでしょう。さっきまで明るかった二階の窓は、急に真っ暗になってしまいました。それと同時に、不思議な香(こう)の匂いが、町の石畳(いしだたみ)にまでしみこむほど、どこからか静かに漂(ただよ)ってきました。

四

その時、あのインド人のおばあさんは、ランプを消した二階の部屋の机に、魔法の本を広げながら、何度も呪文(じゅもん)を唱えていました。本は、香炉(こうろ)の火の光に照らされて、暗い中でも文字だけがぼんやりと浮かび上がっていました。おばあさんの前には、心配そうな恵蓮(えれん)が、――いや、中国の服を着せられた妙子(たえこ)が、じっと椅子に座っていました。さっき窓から落とした手紙は、無事に遠藤さんの手に入っただろうか?あの時、道にいた人影は、確かに遠藤さんだと思ったけれど、もしかして人違いじゃなかっただろうか?――そう考えると妙子は、いてもたってもいられないような気持ちになってきました。でも、もし今、うっかりそんな不安な気持ちがおばあさんの目についてしまったら、この恐ろしい魔法使いの家から逃げ出そうという作戦は、すぐにバレてしまうでしょう。だから妙子は、一生懸命にふるえる両手を組み合わせて、前もって考えておいた通り、アグニの神様が乗り移ったように見せかける時間が近づくのを、今か今かと待っていました。
おばあさんは呪文を唱え終わると、今度は妙子の周りを回りながら、色々な手ぶりを始めました。ある時は前に立ったまま、両手を左右に上げてみたり、またある時は後ろに回って、まるで目隠しでもするように、そっと妙子の額の上に手をかざしたりするのです。もしこの時、部屋の外から誰かおばあさんの様子を見ていたとしたら、それはきっと大きなコウモリか何かが、青白い香炉の火の光の中を、飛び回っているように見えたことでしょう。
そうしているうちに、妙子はいつものように、だんだんと眠気が襲(おそ)ってきました。でも、ここで眠ってしまったら、せっかくの作戦を成功させることも、できなくなってしまうのは当たり前です。そして、これができなければ、もちろん二度とお父さんのところへも、帰れなくなるに違いありません。
「日本の神様たち、どうか私が眠らないように、守ってください!その代わり、もしもう一度、たとえ一目だけでもお父さんの顔を見ることができたなら、すぐに死んでもかまいません。日本の神様たち、どうかおばあさんをだませるように、力を貸してください!」
妙子は、心の中で何度も何度も、熱心に祈り続けました。けれど眠気は、どんどん強くなるばかりです。それと同時に、妙子の耳には、まるで大きな銅鑼(どら)を鳴らすような、正体のわからない音楽の音が、かすかに聞こえ始めました。これは、いつもアグニの神様が空から降りてくるときに、きっと聞こえる声なのです。もうこうなってしまっては、いくら我慢しても、眠らずにいられるはずがありません。

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