初級翻訳・秋 第2話

秋

けれど、果たして信子の結婚は、妹が想像しているような「完全な自己犠牲」だったのでしょうか。
そう疑うことは、涙を流した後の信子の心に、重苦しい気持ちを広げてしまいがちでした。
信子はその重苦しさを避けるために、たいていはじっと、切ない気持ちの中に浸っているようにしていました。
そのうちに、外の松林一面に当たっていた日の光が、だんだんと黄色っぽい夕暮れの色に変わっていくのを眺めながら。

二

結婚してからの三ヶ月ほどは、どこの新婚夫婦とも同じように、彼らも幸せな日々を送っていました。
夫はどこか女性的で、あまり自分から話をしない人でした。
それが毎日、会社から帰ってくると、必ず夕食後の数時間は、信子と一緒に過ごすことにしていました。
信子は編み物をしながら、最近世間で話題の小説や演劇の話などをしました。
その話の中には、時折、キリスト教の香りがする女子大時代の人生観が混ざることもありました。
夫は晩酌で頬を赤らめたまま、読みかけた夕刊を膝に乗せて、珍しそうに耳を傾けていました。
けれど、夫自身の意見を口にすることは一度もありませんでした。
彼らはまた、たいてい日曜日ごとに、大阪やその近郊の遊び場へ出かけて、気楽な一日を過ごしました。
信子は汽車や電車に乗るたびに、どこでも構わず食べたり飲んだりする関西の人たちが、みんな行儀悪く見えてしまいました。
それだけに、おとなしい夫の態度が格段に上品に思えて、嬉しく感じたのです。
実際、身ぎれいな夫の姿は、そういった人混みの中にいると、帽子からも、スーツからも、あるいは赤革の靴からも、石鹸の香りに似た、清潔で爽やかな雰囲気が漂っているようでした。
特に夏の休暇で舞子まで足を延ばしたときには、同じ茶屋に居合わせた夫の同僚たちと比べて見て、ますます誇らしいような気持ちにならずにはいられませんでした。
が、夫はその少し下品な同僚たちに、意外なほど親しみを持っているようでした。

そのうちに信子は、長い間お休みしていた創作活動のことを思い出しました。
そこで、夫が留守の間だけ、一、二時間ずつ机に向かうことにしました。
夫はその話を聞くと、「いよいよ女流作家になるのかい」と言って、優しい口元に薄い笑みを浮かべました。
しかし、机に向かってみたものの、思ったよりもペンは進みませんでした。
彼女はぼんやりと頬杖をついて、真夏の松林に響く蝉の声に、自分でも気づかないうちに耳を傾けてしまっている自分に気づくことがよくありました。
ところが、残暑が秋の気配に変わり始めたある日のこと、夫が会社へ出かけようとして、汗じみた襟を取り替えようとしました。
あいにく、清潔な襟は一本残らず洗濯屋へ出していて手元にありませんでした。
日頃から身なりに気を使っている夫だけに、不快そうに顔を曇らせました。
そしてズボン吊りを掛けながら、「小説ばかり書いていては困る」と、いつもにはない嫌味を言いました。
信子は黙って目を伏せ、夫の上着の埃を払っていました。
それから二、三日過ぎたある夜、夫は夕刊に出ていた食料不足のニュースから、「毎月の生活費をもう少し節約できないものか」と言い出しました。
「お前だって、いつまでも学生気分ではいられないだろうし」――そんなことまで口にしました。
信子は気のない返事をしながら、夫のワイシャツの襟飾りに、刺繍を施していました。すると夫は、意外なほどしつこく、「その襟飾りにしてもさ、自分で作るより買ったほうが、かえって安くつくじゃないか」と、やはりネチネチした口調で言いました。
彼女はますます何も言い返せなくなりました。
夫も最後には白けた顔をして、つまらなそうに商売関係の雑誌か何かばかり読んでいました。
それでも寝室の電気を消したあと、信子は夫に背を向けたまま、「もう小説なんて書きません」と、ささやくような声で言いました。
夫はそれでも黙っていました。
しばらくして彼女は、同じ言葉をさっきよりもかすかな声で繰り返しました。
それから間もなく、泣く声が漏れました。
夫は二言三言、彼女を叱りました。
その後も彼女のすすり泣きは、途切れ途切れに聞こえていました。
それでも信子はいつの間にか、夫にしっかりとすがりついていました。
……
翌日、二人はまた元の通り、仲の良い夫婦に戻っていました。
かと思えば今度は、夜の十二時を過ぎても夫が会社から帰ってこない晩がありました。
しかもようやく帰ってきたときには、雨用のコートも一人では脱げないほど、お酒の臭いをプンプンさせていました。
信子は眉をひそめながらも、甲斐甲斐しく夫の着替えを手伝いました。
夫はそれにもかかわらず、呂律の回らない舌で皮肉まで言いました。
「今夜は僕が帰らなかったから、さぞかし小説がはかどっただろう」――そんな言葉が、何度となく女性のような口から飛び出しました。
彼女はその晩、布団に入ると、思わず涙がポロポロとこぼれ落ちました。
こんな姿を照子が見たら、どれほど一緒に泣いてくれることでしょう。
照子。照子。
私が頼りに思っているのは、たったお前一人だけだよ。――信子は何度も心の中でそう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しめられて、ほとんど一晩中眠ることもできず、寝返りばかり打っていました。
それでも、その翌日になると、自然と仲直りができていました。
そんなことが何度か繰り返されるうちに、だんだんと秋が深まってきました。
信子はいつの間にか机に向かって、ペンを握ることも少なくなっていきました。
その頃にはもう夫のほうも、以前ほど彼女の文学の話を珍しがらなくなっていました。
二人は毎晩、長火鉢をはさんで、どうでもいいような家庭の節約話をして時間を潰すことを覚えてしまいました。
そのうえ、こうした話題は、少なくとも晩酌をした後の夫にとっては、何よりも興味があるようでした。
それでも信子は気の毒そうに、時々夫の顔色をうかがうことがありました。
けれど、夫は何も知らずに、最近伸ばし始めた髭を噛みながら、いつもよりずっと上機嫌で、「これで子供でもできたら――」などと、考え考え話していました。
するとその頃から、月刊雑誌に従兄(いとこ)の名前が見えるようになりました。
信子は結婚してから忘れたかのように、俊吉との手紙のやり取りを絶っていました。
ただ、彼の近況は――大学の文科を卒業したとか、同人雑誌を始めたとかいうことは、妹からの手紙で知るだけでした。
また、それ以上彼のことを知りたいという気持ちも起きませんでした。
けれど、彼の書いた小説が雑誌に載っているのを見ると、懐かしさは昔のままでした。
彼女はそのページをめくりながら、何度も一人で微笑みを浮かべました。
俊吉は小説の中でも、冷笑と冗談という二つの武器を、まるで宮本武蔵のように使いこなしていました。
しかし彼女には、気のせいか、その軽快な皮肉のあとに、これまでの従兄にはなかった、寂しげで投げやりな雰囲気が隠れているように思われました。
と同時に、そう思うことが、どこか後ろめたいような気もしないではありませんでした。
信子はそれ以来、夫に対して、ますます優しく振る舞うようになりました。

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