初級翻訳・不思議な島 第3話

不思議な島

そうやって温かい色をした野菜のことを、プロレタリア(労働者)の野菜と呼んでいるのです」
 僕「でも、積み上げてあった野菜はキュウリやマクワウリばかりでしたけど……」
 老人「それはきっと色盲なんですよ。
自分では赤い色のつもりでいるのでしょうね」
 僕「じゃあ、冷たい色の野菜はどうなんですか?」
 老人「こちらも、『冷たい色の野菜でなければ野菜ではない!』と言い張る人たちがいます。
もっとも、この人たちは冷ややかに笑うだけで、演説などはしないようですがね。心のなかでは負けず劣らず、温かい色の野菜を毛嫌いしているようです」
 僕「ということは、つまり卑怯ってことですか?」
 老人「いや、演説をしたくないというより、演説をしたくてもできないのさ。
大体みんな、お酒の飲みすぎか病気のせいで、舌が腐ってしまっているようですからね」
 僕「ああっ、だからあんな様子だったのか! シャツ一枚の豪傑の向こう側に、細いズボンをはいた気障(きざ)な才子が一人、せっせとカボチャをもぎりながら『へん、演説だってさ』と冷ややかに言っていましたっけ」
 老人「まだ青いカボチャをいじりながら、でしょう?
ああいう色の冷たい野菜のことを、ブルジョア(資本家)の野菜と呼んでいるのです」
 僕「そうすると、結局どうなるんですか? 野菜を作っている人たちに言わせれば……」
 老人「野菜を作っている人たちに言わせれば、自分が育てた野菜に似ているものはすべて良い野菜で、似ていないものはすべて悪い野菜。
これだけはとにかく間違いありませんよ」
 僕「しかし、この島にも大学はあるのでしょう? 大学の教授たちは『野菜学』の講義をしているそうですから、野菜の良し悪しを見分けるくらい簡単なことだと思うのですが……」
 老人「ところが、大学の教授ともなると、サッサンラップ島の野菜の話になったら、エンドウ豆とそら豆の区別すらつかなくなるのです。
もっとも、一世紀よりも昔の古い野菜の歴史なら、講義のなかにも出てきますけどね」
 僕「じゃあ、教授たちは一体どこの野菜を知っているんですか?」
 老人「イギリスの野菜、フランスの野菜、ドイツの野菜、イタリアの野菜、ロシアの野菜……。
なかでも学生一番人気なのは、ロシアの野菜についての講義だそうですよ。
ぜひ一度、大学を見に行ってみなさい。
僕がこの前見学に行ったときには、鼻眼鏡をかけた教授が一人、瓶の中のアルコールに漬けられた古いロシアのキュウリを見せながら、こんなふうにすらすらと熱弁をふるっていましたよ。
『サッサンラップ島のキュウリを見たまえ。どれもこれもただの浅い青色をしている。だが、偉大なるロシアのキュウリはそんな薄っぺらい色ではない。この通り、人生そのものに似た、掴みどころのない深い色をしているのだ! ああ、偉大なるロシアのキュウリとは……!』ってね。
僕はそのときの感動のあまり、二週間ほど床に伏せってしまったものですよ」
 僕「すると――するとですね、やっぱりあなたの言う通り、野菜が売れるか売れないかは、神様の気まぐれや意志に従うと考えるほかないってことですか?」
 老人「まあ、それ以外の方法はないでしょうね。
それに実際、この島の住民たちはたいてい『バブラブベエダ』を信仰していますよ」
 僕「なんですか、そのバブラブ何とかっていうのは?」
 老人「『バブラブベエダ』です。
B-A-B-R-A-B-B-A-D-A と綴りますよ。
まだあなたは見かけていませんか? あの大きなお寺(伽藍)の中にある……」
 僕「ああ、あの豚の頭をした、大きなトカゲの形をした偶像のことですか?」
 老人「あれはトカゲではありません。
天地を支配する『カメレオン』ですよ。
今日もあの神様の前に、大勢の人たちが頭を下げていたでしょう?
ああいう人たちは、自分たちの野菜が売れるようにと祈りの言葉を唱えているのですよ。
なんせ最近の新聞によれば、ニューヨークあたりのデパートでさえ、みんなそのカメレオンの神様からお告げが下るのを待ってから、新しいシーズンの準備を始めるそうですからね。
いまや世界の信仰は、エホバでもなければアラーでもない。
すっかりカメレオンの手に帰した、とさえ言われているくらいなのです」」
 僕「あの大きなお寺の祭壇の前にも、野菜が山のように積んでありましたが、……」
 老人「あれはみんなお供え物(いけにえ)ですよ。
サッサンラップ島のカメレオンには、去年売れた野菜をお供えするのです。
」
 僕「しかしまだ日本には……」
 老人「おや、誰かがあなたを呼んでいますよ。
」
 僕は耳をすませてみた。
なるほど、確かに僕を呼んでいる声がする。
しかもそれは、最近ずっと蓄膿症(ちくのうしょう)で鼻がつまっている、甥(おい)の声だった。
僕はしかたなく立ち上がりながら、老人のほうへ手を差し出した。
「それでは、本日はこれで失礼します。
」
「そうですか。
では、またお話をしに来てください。
私はこういう者ですから。
」
 老人は僕と握手を交わしたあと、ゆったりとした優雅な仕草で一枚の名刺を出した。
名刺の真ん中には、鮮やかに『Lemuel Gulliver(レミュエル・ガリバー)』と印刷してある! 僕は思わずぽかんと口を開けたまま、ぼんやりと老人の顔を見つめた。
麻色の髪の毛に囲まれた、目鼻立ちのしっかりした老人の顔には、永遠を思わせる冷ややかな笑みが浮かんでいる――と思ったのは、ほんの一瞬のことにすぎなかった。
その老人の顔は、いつの間にか、イタズラ好きな十五歳の甥っ子の顔に変わっていた。
「原稿だってさ。
起きなさいよ。
原稿を取りに来たんだってさ。
」
 甥は僕の体を揺すった。
僕は置きごたつに当たりながら、三十分ほど昼寝をしてしまっていたらしい。
置きごたつの上にぽつんと載っているのは、読みかけの『ガリバー旅行記(Gulliver’s Travels)』だった。
「原稿を取りに来た? いったいどこの原稿を?」
「随筆の原稿だってさ。
」
「随筆の?」
 僕は思わず自分でも驚いて、ひとりごとをつぶやいた。
「サッサンラップ島の野菜市場には、『はこべら』のような小さな雑草の仲間まで売れるらしいなあ。
」
(大正十二年十二月)

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