しかしお姫様は、まだ目に涙をいっぱいためたまま、ほら穴の奥のほうをそっと指さして、こう言いました。
「だけどあすこには、私をさらってきた食蜃人が、さっきからお酒に酔って眠っています。
あいつが目を覚ましたら、すぐに追いかけてくるでしょう。
そうなったら、あなたも私も、命を取られてしまうに違いありませんわ」
すると髪長彦は、にっこりとほほ笑んで、
「たかが知れた食蜃人なぞを、どうしてこの私が怖がるものですか。
その証拠に、今ここで訳なく退治してみせましょう」
と言いながら、ぶち犬の背中をポンと一つたたき、
「噛め。
噛め。
このほら穴の奥にいる食蜃人を、一かみで噛み殺せ!」
と、勇ましい声で命令しました。
するとぶち犬は、すぐに鋭いキバをむき出しにして、雷のようなうなり声をあげながら、まっしぐらにほら穴の中へとびこんでいきました。そして、あっという間に血だらけになった食蜃人の首をくわえたまま、しっぽをふりふり外へ出てきたのです。
ところが不思議なことに、それと同時に、雲でおおわれた谷底から一陣の風がまき起こると、その風の中から誰かの声がして、
「髪長彦さん、ありがとうございます。このご恩はけっして忘れません。
私は食蜃人にいじめられていた、生駒山の『駒姫(こまひめ)』です」
と、やさしい声で言いました。
しかしお姫様は、命びろいをしたうれしさで、その声も聞こえないような様子でしたが、やがて髪長彦の方を向いて、心配そうにこう言いました。
「私はあなたのおかげで命びろいできましたが、妹は今ごろどこでどんな目にあっていることでしょう……」
それを聞いた髪長彦は、また白犬の頭をなでながら、こう言いました。
「嗅げ。
嗅げ。
もう一人のお姫様の行方を嗅ぎ出してくれ」
すると白犬はすぐに、
「ワン、ワン! 妹御のお姫様は、笠置山のほら穴にすんでいる『土蜘蛛(つちぐも)』につかまっています!」
と、主人の顔を見上げながら、鼻をびくつかせて答えました。
この土蜘蛛というのは、昔、神武天皇さまが退治されたことがある、一寸法師(いっすんぼうし)のような姿をした悪者なのです。
そこで髪長彦は、さっきと同じように二匹の犬を小脇にかかえ、お姫様といっしょに黒犬の背中にまたがると、
「飛べ。
飛べ。
笠置山のほら穴にすんでいる土蜘蛛のところへ飛んでいけ!」
と言いました。すると黒犬はたちまち空へ飛び上がり、こちらも青雲がたなびく中にそびえ立つ笠置山へ、矢よりも早く駆け出していきました。
四
さて、笠置山に着いてみますと、ここにいる土蜘蛛はたいそうずる賢いやつでしたから、髪長彦の姿を見るが早いか、わざとにこにこ笑いながらほら穴の前まで出迎えて、こう言いました。
「これはこれは、髪長彦さん。遠いところをご苦労でございました。
まあ、こちらへお入りなさい。
大したものはございませんが、せめてものおもてなしに、しかの生ぎも(きぎも)や、くまのはらこでもごちそうしましょう」
しかし髪長彦は首をふって、
「いやいや、おれはお前がさらってきたお姫様を取り返しにやってきたのだ。
一刻も早くお姫様を返すならよし、そうでなければあの食蜃人のように退治してくれるから、そのつもりでいろ!」
と、ものすごい勢いで怒鳴りつけました。
すると土蜘蛛は、あまりの恐ろしさにちぢみ上がって、
「あ、お返しいたしますとも! どうしてあなたのご命令にいやだなどと言えましょうか。
お姫様はこの奥にちゃんと、ひとりでいらっしゃいます。
どうかご遠慮なく中へ入って、お連れになってくださいまし」」と、声をふるわせながら言いました。
そこで髪長彦は、お姉様のお姫様と三匹の犬を連れてほら穴の中へ入ってみますと、なるほどここにも銀のくしをさした、かわいらしいお姫様が、悲しそうにしくしく泣いていらっしゃいました。
お姫様は、人がやって来た気配に驚いて、急いでこちらをご覧になりましたが、お姉様のお顔を一目見たと思うと、
「お姉様!」
「妹よ!」と、二人ののお姫様は一度に両方から駆け寄って、しばらくは互いに抱き合ったまま、うれし涙にくれていらっしゃいました。
髪長彦もこの様子を見てもらい泣きをしていましたが、急に三匹の犬が背中の毛を逆立てて、
「ワン!
ワン!
土蜘蛛の畜生め!」
「憎いやつだ、
ワン!
ワン!」
「ワン!
ワン!
ワン!
覚えていろ、
ワン!
ワン!
ワン!」と、気が狂ったように吠え出しましたから、ふと気がついて振り返ってみると、あのずる賢い土蜘蛛はいつの間にやったのか、大きな岩で一分のすきもないように、外からほら穴の入口をぴったりとふさいでしまいました。
おまけにその岩の向こうでは、
「ざまあみろ、髪長彦め!
こうしておけば、貴様たちは一月もたたないうちに干からびて死んでしまうぞ。
いやはや、俺のこの頭脳プレーは、我ながら恐れ入ったものだな!」と、手をたたいて土蜘蛛の笑う声が聞こえています。
これにはさすがの髪長彦も、さてはやられたかと、一時は悔しがりましたが、幸い思い出したのは、腰にさしていた笛のことです。
この笛を吹きさえすれば鳥獣は言うまでもなく、草木もうっとり聞きほれるのですから、あのずる賢い土蜘蛛だって、心を動かさないとは限りません。
そこで髪長彦は勇気を出し直し、吠えたける犬をなだめながら、一心不乱に笛を吹き始めました。
するとその音色のすばらしさには、悪者の土蜘蛛もだんだん我を忘れてしまったのでしょう。
最初はほら穴の入口に耳をつけてじっと聞き澄ましていましたが、とうとうしまいには夢中になって、一寸二寸と大岩を少しずつ横へ開き始めました。
それが人一人通れるくらい、大きな口を開けたときです。
髪長彦は急に笛をやめて、
「噛め!
噛め!
ほら穴の入口に立っている土蜘蛛を噛み殺せ!」
と、ぶち犬の背中をたたいて命令しました。
この声に肝を潰して、土蜘蛛が一目散に逃げ出そうとしましたが、もうそのときは間に合いません。
ぶち犬はまるで電光石火の勢いでほら穴の外へ飛び出すと、何の苦もなく土蜘蛛を噛み殺してしまいました。
ところがまた不思議なことに、それと同時に谷底から一陣の風が吹き起こって、
「髪長彦さん、ありがとうございます。このご恩は忘れません。
私は土蜘蛛にいじめられていた、笠置山の『笠姫(かさひめ)』です」
と、やさしい声が聞こえました。
五
それから髪長彦は、二人の御姫様と三匹の犬をひきつれて、黒犬の背中にまたがりながら、笠置山の頂上から、飛鳥の大臣様がいらっしゃる都の方へまっすぐに、空を飛んでまいりました。
その途中で二人の御姫様は、どう思われたのか、ご自分たちの金のくしと銀のくしを抜き取って、それを髪長彦の長い髪へそっとさして置かれました。
しかし、髪長彦はもとよりそんなことには気づくはずもありません。
ただ一生懸命に黒犬を急がせながら、美しい大和の国原を足の下に見下ろして、ずんずん空を飛んで行きました。
そのうちに髪長彦は、あの始めに通りかかった三つ叉の道の空まで犬を進めてきましたが、見るとそこにはさっきの二人の侍が、どこからかの帰りと見えて、また馬を並べながら都の方へ急いでいます。
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