昭和十二年七月
三宅幾三郎
目次
はしがき
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タングルウッドの玄関(「ゴーゴンの首」の話の前に)
ゴーゴンの首
タングルウッドの玄関(話のあとで)
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シャドウ・ブルック(「何でも金になる話」の前に)
何でも金になる話
シャドウ・ブルック(話のあとで)
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タングルウッドの遊戯室(「子供の楽園」の話の前に)
子供の楽園
タングルウッドの遊戯室(話のあとで)
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タングルウッドのいろりばた(「三つの金のりんご」の話の前に)
三つの金のりんご
タングルウッドのいろりばた(話のあとで)
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丘の中腹(「不思議の壺」の話の前に)
不思議の壺
丘の中腹(話のあとで)
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禿げた頂上(「カイミアラ」の話の前に)
カイミアラ
禿げた頂上(話のあとで)
はしがき
著者は、ずっと前から「ギリシャやローマの神話の多くは、少年少女のために、とてもすばらしい読み物に書きかえることができる」と考えてきました。
ここに発表するこの小さな本の中で、著者はその目標に向かって、六つの神話物語を書き上げてみました。
この計画を実現するためには、思い切って自由に物語を扱う必要がありました。
しかし、どんな人であっても、これらの伝説を自分なりに考え直してみれば、それらが実に、どんな時代や特別な事情にも縛られない、普遍的なものであることに気づくはずです。
たとえ、ほかの何かがすべて失われてしまうほど大きな変化を加えたとしても、神話そのものの本質は少しも変わりません。
ですから著者は、二、三千年の歴史によって大切に守られてきたその形に対して、空想のままに少し手を入れたからといって、別に惜しいことをしたとは考えていません。
どんな時代も、「これらの神話は自分たちのものだ」と独占することはできません。
それらは、誰かが作ったという感覚がないほど自然なもので、きっと人類が存在する限り、決して滅びることはないでしょう。
しかし、そうして不滅であるからこそ、いつ、どんな時代であっても、その時代ならではの形や感情の服を着せ、その時代に必要な道徳を吹き込んでも、何の問題もないのです。
この本の中で、神話はもしかすると古典的な姿の多くを失ってしまったかもしれません(そもそも著者は、あえてそれを守ろうとはしませんでした)。そして、おそらく、少し荒っぽく、あるいはロマンチックなものになってしまったかもしれません。
この楽しい仕事をするにあたって――というのも、これは本当に夏にぴったりの仕事でしたし、著者がこれまで手がけた文学的な仕事の中でも、最も心地よいものの一つだったからです――著者は、子供たちによく分かってもらうために、わざわざ話を幼くして書かなければならないとは考えませんでした。
物語の性質上、自然とそうなる時や、あるいは著者の気持ちが話に引き込まれて高ぶっていく時には、たいていの場合、話の調子が高まるままに任せて書きました。子供たちは、想像の上でも感情の上でも、それがどんなに深く、あるいは高いものであっても、同時に単純でさえあれば、驚くほど理解力があるものです。
子供たちを困惑させるのは、ただひたすらにひねくり回された、込み入ったものだけなのです。
タングルウッドの玄関
――「ゴーゴンの首」の話の前に――
天気のいい、ある秋の朝のこと。タングルウッドという田舎のお屋敷の玄関先に、背の高い青年を取り囲んで、愉快な子供たちの一群が集まっていました。
彼らはこれから木の実拾いに出かけることになっていたので、丘の斜面から霧が晴れ上がり、お日様が野原や牧場の一面に、そして色とりどりに紅葉した森の奥まで、小春日和のあたたかさを降り注いでくれるのを、今か今かと待っていたのです。
この美しく、気持ちのいい世界の様子をさらに引き立てて見せる上天気の中でも、今日はまたとびきりの上天気になりそうでした。
しかし今のところ、霧はまだ谷間の端から端まで立ちこめていて、お屋敷はそれに浮かぶように、なだらかに盛り上がった丘の上に建っていました。
この白い霧は、家から百ヤードも離れないあたりまで迫っていました。
それから先はすべて霧に隠れてしまい、ただ見えるものといえば、あちらこちらに頭を突き出し、霧の海とともに朝の光に美しく照らし出されている、赤や黄色の木のてっぺんだけでした。
南の方、四、五マイル離れたところには、モニュメント山のいただきがそびえていました。
それがまた、雲の上に浮かんでいるようでした。
同じ方角のさらに十五マイルほど向こうには、一層高いタコウニック山の円い頭が見えていましたが、青くかすんでいて、それを取り巻く雲の海よりもかすかなくらいでした。
谷間を取り巻く、もっと近い山々は半分霧の中に沈み、頂上までの間に、点々と巻雲を浮かべていました。
こうして全体を見渡すと、あまりに雲や霧が多く、大地がほとんど見えないので、なんだか夢を見ているような気分になります。
先ほど言った子供たちは、元気いっぱいに満ちあふれていたので、何度もタングルウッドの玄関から外へ飛び出しては、砂利道を駆け回ったり、露にぬれた芝草の上を突き抜けたりしていました。
子供の数は正確には分かりませんが、九人や十人を下回ることはなく、かといって十二人は超えていませんでした。
男の子も女の子も、その様子や体の大きさ、年恰好はさまざまでした。
彼らは兄弟、姉妹、いとこ同士で、そこへ二、三人の小さな友達も加わっていました。その子たちは、このいい季節の一部をここの子供たちと一緒にタングルウッドで過ごすようにと、プリングルさん夫婦に招かれていたのです。
私は彼らの名前を明かすことも、またこれまで世間の子供たちにつけられたどんな名前で呼ぶことも控えておこうと思います。
というのも、物を書く人が作品中の登場人物に、たまたま実在する人の名前をつけてしまったために、大変厄介なことになるというケースを、私はよく知っているからです。
そんなわけで、私は彼らを、プリムロウズ、ペリウィンクル、スウィート・ファーン、ダンデライアン、ブルー・アイ、クロウヴァ、ハックルベリ、カウスリップ、スクォッシュ・ブロッサム、ミルク・ウィード、プランティン、そしてバタカップといった名前で呼ぶことにします。
もっとも、こんな名前は人間の子供たちよりも、一群の妖精たちにつけるほうがふさわしいような気もしますが。
彼らが、特に真面目な年長者の監督なしに、森や野原をあちこち歩き回るようなことは、彼らの注意深い父や母、叔父や叔母、あるいは祖父母たちが許すはずもありません。
どうしてどうして、とんでもない! この本の書き出しで、背の高い青年が子供たちの真ん中に立っていたと私が言ったことを、読者は思い出してくださるでしょう。
彼の名――(これだけは本名を知らせておきましょう。
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