一
四郎は、ついこの間から、いつの間にか自然と口笛が吹けるようになっていた。
どうして吹けるようになったのか? 自分でもよくわからない。
「またお前は口笛を吹いている。勉強しながら口笛なんて吹くものではありません」と、四郎は母から叱られた。
なるほど四郎は、机の前に座って、宿題の算術(算数)に取り組んでいるところだった。
――四郎は、母の声を耳にしたと同時に、ハッとして、思わず手のひらで口をおさえた。
「あ、しまった」と、彼は思った。
問題を考えているうちに、うっかり吹いてしまっていたのだ。
――もう吹かないぞ――と、四郎は自分をいましめるように呟いて、再び鉛筆を走らせた。
「甲乙二人の旅人がいる。甲は一日に十二里、乙は一日に……」と、問題を読んでいくうちに、四郎の目の前には、まっすぐな街道が浮かんだ。
片側には鬱蒼とした木々が茂っている。反対側は崖になっていて、崖の下ではさらさらと音を立てて小川が流れていた。一人の旅人が木々を見上げたり、小川を見下ろしたりしながら、その一筋道をコツコツと歩いている。
――四郎の頭に、ふっとそんな光景が浮かんだのだ。
言うまでもなく、算術の問題に出てくる「旅人」という言葉に引きずられて思いついた想像だった。
四郎はこの光景を想い描きながら、旅人の歩みに合わせて、だんだんと移り変わっていく風景や、旅人の気持ちなどを想像した。
四郎にはいつもそういう悪い癖があった。次から次へと、絵のような空想をふくらませてしまう――悪い癖だった。
だから四郎は算術が一番苦手だった。「数」というものをじっくりと考えることができなかったからだ。
その代わり、絵を描くことは好きだった。そして得意だった。
――算術の場合には悪い癖でも、絵の場合には良い癖になるわけだ。
そこまでは四郎にも考えることができたが、ではこの癖は、一体ほんとうに悪いのか、それとも良いのかと考えてみると、わからなくなってしまうのだった。
今、四郎は机に向かって算術の問題を考えているところだった。それなのに、考えはいつの間にか、とんでもないところへ走り出していた。
「これは確かに良くない。算術の時間には算術だけを考えなければならないんだ。そんなことはわかりきったことじゃないか」――と、四郎は自分を強く叱りつけた。
――なんだか笑い出したいような気持ちになった。すると、またうっかり口笛を吹きそうになった。
二
「四郎さん、遊ばないか?」と、隣の賢太郎が庭から声をかけた。
「あ、僕はさっきから遊びに行きたいと思っていたんだ」と四郎は気づいた。
「四郎は今、勉強しているんですよ」
四郎が返事をしようと思った矢先に、母が言った。
四郎は悔しかった。
「それじゃあ、また後で遊ぼうね」と言いながら、賢太郎は行ってしまった。
四郎は寂しかった。すぐに賢太郎の後を追いかけて行こうかとも思った。
「四郎、勉強はまだ終わらないの?」と、隣の部屋からまた母が声をかけた。
四郎は、もう少しで「もうおしまいです」と言ってしまうところだった。もうとても勉強なんてしている気分ではなかったが、まだ宿題が半分も終わっていないので、仕方なく「ええ、もう少し……」と答えた。
「勉強が済んでから遊びにお出かけね」
「ええ」と、四郎はぶすぶすとした口調で答えた。
こうなると、ますます四郎は勉強が手につかなくなった。賢太郎たちはどんなことをして遊んでいるだろうか? 学校の運動場へ行ってテニスをやっているだろうか? ……そんなことばかりが頭に浮かんだ。
自分も遊びに行きたいのなら、余計なことは考えずに一心に算術を片づけたらいい――ということはわかっているのだが、わかればわかるほど気持ちのほうが先走ってしまって、かえって頭の中がめちゃくちゃになるばかりだった。
「こんなことでは駄目だ」と思って、四郎は鉛筆を置いて頬杖をつき、窓から庭を眺めた。
庭の木々には、金色の光が一面に降り注いでいた。その間をトンボが、居眠りでもしながら舞っているように、静かに動いていた。
「また口笛を吹いているね!」と母が言った。
四郎の胸はドキリとした。そして慌てて鉛筆を執った――四郎は焦れったくて、涙が出そうな気分になった。
三
「四郎さん、テニスをやりに行かないか?」
また庭からそんな声がした。山下平三郎という学校の友達だった。
四郎は、今度は母から言われる前に、「僕、まだ宿題をやってるから、後で遊ぼう」と、鼻にかかった声で言った。
「まだできないの? のろまだな」
「だって僕、今始めたばかりなんだもの」と、四郎はうっかりそう言ってしまい、隣室にいる母を思って一瞬ギクリとした。
「あんなやさしい問題、すぐできるじゃないか」
「やさしそうだね」と、四郎は負け惜しみで平気そうに言った。「わからないところがあるなら、教えてやろうか?」
「いいよ」
と、四郎はきっぱりと断りました。
――断るには断ったけれど、いつになったら終わるんだろう? そう思うと、四郎はいてもたってもいられず、じりじりしました。
「じゃあね、終わったら来なよ。僕たち、学校の運動場へ行って遊んでるから」
平三郎はそう言い捨てて、駆け出していきました。
四郎は、その足音に耳を傾けながら、うっとりとした目で空を見上げました。
空には雲ひとつなく、どこまでも青く澄み渡っていました。
――四郎は、ため息をつきました。
「四郎!」
また母の声がしました。
「まだ終わらないの? ずいぶん一生懸命だね」
「…………」
四郎は、再び目を「問題」の上に落としました。
――そよ風がそっと忍び込んできて、四郎の机の上をなでていきました。
窓の敷居には、塩辛トンボが一匹舞い込んできて、羽を休めていました。
トンボの影が、切り絵のようにくっきりと鮮やかに映っていました。
トンボはその大きな目をギョロリと動かしただけで、あとは身動きひとつせず休んでいました。
何か心配事でも考えているんじゃないかしら? そう思えるくらい、トンボは静かに休んでいました。
四郎は、自分の顔をそっとそのトンボの目の近くまで寄せてみました。
トンボの青い、まるで外国人のような目は鏡のように光っていて、そこには何か細いものがキラキラと美しく映っていました。
四郎は何もかも忘れたような気持ちになって、一心にトンボを見つめていました。
トンボの羽は銀色に輝き、体はまるで精巧な塗り物のようにピカピカと光っていました。
そして、見るからに繊細そうな脚が、かすかに震えているようでした。
四郎は毎日見慣れているトンボでしたが、こんなにじっくりと細部まで見たのは初めてのような気がしました。
そう思ってさらに目を凝らして眺めると、今まで少しも気づかなかったトンボの様々な細かい特徴が、次から次へと発見されました。
――四郎は、そっと唇を尖らせて息を吹きかけました。
するとトンボの羽には、夕凪の微風を浴びたときのような、静かな揺らめきが漂いました。
まさか人間が息を吹きかけているとは気づいていないのでしょう。
それでも「気持ちのいい涼しい風だな……」とでも思っているらしく、トンボは平気な顔をしていました。
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