多助、この親は仮の親だったと心得て、沼田のお父さんに孝行をするんだよ」
多助は「はい、はい、孝行しますから。早くお屋敷へお帰りなさいまし」と答えました。
お清は悲しみに堪えかねて泣きながら、多助にこう言いました。
「寝る時は布団を蹴飛ばさないように気を付けるのですよ。もうお目にかかれないかもしれませんが、奥様によろしくお伝えして、どうぞお世話になってくださいね」
角右衛門は「なに、心配することはないよ」と答えました。
それから、祝いの酒肴を用意して親類を集め、亡くなった家来の通夜と酒宴を行いました。翌三日の朝、村の名主である倉田平四郎という人に届け出をして、百姓の角右衛門が多助をしっかりと背負いました。夫婦は須賀川の宿まで見送りに来ると、「どうか道中、お気を付けて」と声をかけます。
角右衛門は「ええ、道には気を付けますから大丈夫です。どうか屋敷へ帰ってご奉公が叶いましたら、便りをください」と頼みました。
塩原も「音沙汰がないのは心配ですから、何分お願いします」と返し、多助は「お父さん、お母さん、達者で屋敷へ帰っておくれよ」と、振り返りながら一生懸命に手を振りました。
塩原夫婦は見送りながら泣く泣く帰路につこうとした、その時です。向こうから「わいわい」という声と共に、大勢の人が駆け寄ってきました。その先頭を真しぐらに走ってきたのは一頭の青毛の馬で、ひどく暴れてドスドスと迫ってきます。
この道は左右が深い谷川になっており、一騎が通るのがやっとの狭い道で、どこへ逃げることもできません。
「ああ、この子に怪我をさせては大変だ」と心配していると、浪人の塩原角右衛門が馬の前に仁王立ちとなって立ちはだかり、手綱をしっかりと掴んで百姓の角右衛門に手渡しました。幸い、この馬はもともと角右衛門が買おうとしていた馬だったので、すぐに受け取ることができ、多助を馬に乗せて沼田の下新田へと向かったのでした。
浪人の塩原は、角右衛門から譲り受けた金で支度を整え、名主に別れの挨拶に向かいました。名主も名残惜しいからと祝いの宴を開いてくれ、村で塩原に剣術を習っていた者たちもいたため、結局九月三日まで村に留まることになりました。これが、塩原多助の生い立ちでございます。
さて、話は変わって江戸におりますおかめのこと。娘のおえいが毎日「お父様はまだ帰らないの?」と聞くので、おかめも心配していました。そこへ堺屋傳吉が帰ってきました。
傳吉は言いました。
「宇之助さんは上州の小川村で知人に会ったと聞いて、私は別れて沼田の大竹屋で待っていたのですが、いつまで待っても来ないので帰ってきました。まだ宇之助さんは帰っていないのですか?」
おかめはそれを聞いてひどく心配し、神籤(みくじ)を引いたり占い師に見てもらったりしましたが、行方は分かりません。その上、借金の取り立てが厳しく、とても生活を維持できなくなりました。ついに店を畳むことになり、七歳になるおえいを背負って、心当たりを探す旅に出ることにしました。それが九月三日のことです。
「上州の小川村」と聞いたことだけを頼りに、女の一人旅です。馬子や雲助といったたちの悪い男たちにからかわれながら、心細い思いをして、ようやく中仙道の大宮宿までたどり着きました。翌四日は鴻巣で昼食をとります。旅費が乏しいので駕籠など雇えるはずもなく、馬を雇うのが精一杯ですが、それさえも十分に使えるわけではありませんでした。田本の茶屋で昼食を注文して待っていると、隣の席に四十一、二歳くらいの女性が座っていました。着ているのは小弁慶の柄の着物に、細かい縞模様の半纏(はんてん)を羽織った、商人風の奥様です。もう一人はその息子か供か、二十一、二歳くらいの商人風の男で、脚絆(きゃはん)や甲掛(こうがけ)をしっかり着け、旅慣れた様子でせっせと食事をしていました。
男が言いました。「お母さん、いいお子さんですねえ」
女が笑って言います。「ああ、本当にいい子だねえ。もし、そこのおかみさん、あなたのお嬢さんですか?」
おかめは答えました。「はい、そうでございます」
女「おいくつになりますか?」
おかめ「はい、七歳でございます」
女「あなたはどちらまでおいでですか?」
おかめ「はい、上州の小川村まで参りますのですが、小川村というところへ行くには、どこへ出ましたらよろしいのでしょうか」
男「小川村というのは、上州でも東の方の山国と聞いておりますが、ずいぶん遠くまでおいでですねえ」
女「お前さんは江戸の言葉のようですが、何の用事で小川村へ行かれるのですか?」
おかめ「はい、主人が小川村におりますので、そこへ参りますが、旅になれていないので困っております」
女「そうですか。私たちは前橋に住んでおりますが、もとは中橋の生まれでして、江戸っ子なんです。前橋でさえ寂しくて仕方がないのに、そんな山の中へお一人で行かれるなんて、さぞ心細いでしょう。ねえさん、ここへおいで」
おえいは人見知りをしない子なので、「おばあさん」と顔を横に向けて言いました。
女は「さあ、このお魚をお食べ」と言います。
おかめは「あら、いけませんよ。誰のところへでも構わず上がってしまって、困りますねえ」と恐縮します。
女は「私は子煩悩でね、子供といえばこの息子一人なもので、女の子というのはどうも可愛らしくて。さあ、これをお食べ」
そうこうしているうちに、おえいはすぐにその女性と仲良くなり、まとわりついて離れません。
女は「どうせ熊谷へ泊まるつもりですから、松坂屋という宿がよろしいですよ。そこへ泊まりましょう。あなたもお疲れでしょうから、私が背負ってあげましょう」と言ってくれました。おかめも一人旅の途中で頼もしい連れができたと心から喜びました。おえいもすっかりその奥様に懐いてしまい、一緒に寝なければ嫌だと言い出すほどでした。
女が「今夜は私が抱いて寝ますよ」と言ってくれたので、その夜は奥様が抱いて寝て、翌日一緒に出発しました。
当時はまだ馬車道などなく、熊谷から前橋へ出るには、本庄宿の手前にある御堂坂から榎木戸村を通り、八丁川岸という所を経て、日光一の関所へ向かうルートでした。
その頃は、女性は手形がなければ通ることができなかったので、久下村から中瀬に出て、渡し船を越えていきました。ようやく「堺」という所まで来ると、時刻は午後三時を過ぎて日が傾き、足が疲れて歩けなくなってしまいました。
女が言います。「どうしましょう、伊勢崎まで行けるかしらね」
男も言います。「お母さん、この辺には良い宿屋がないから、伊勢崎の銭屋へ泊まりましょう」
女「そうしましょう。おかみさんも疲れているでしょうから、駕籠(かご)を頼みましょう。どうせ私たちも乗るのですから、一緒に乗ればいいでしょう」
そうこうしているうちに、男がしばらくして馬を一頭と駕籠を一挺(いっちょう)手配してきました。
男が言いました。「お母さん、駕籠は一挺しかありませんから、おかみさんは馬には慣れていないでしょう。おかみさんを駕籠に乗せて、お母さんは馬で行ってください」
女「それじゃあそうしましょう。
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