初級翻訳・妖怪博士 第14話

妖怪博士

それとも、乞食少年は探偵に見つかってギョッとなり、逃げ出したでしょうか。
いやいや、決してそんなことはありませんでした。
実に不思議なことに、探偵も乞食少年も少しも驚いた様子を見せず、お互いに顔を見合わせると、ニコニコと笑い出したのです。
それから、ますます妙なことが起こりました。
乞食少年は遠慮することもなく、ツカツカと明智の机のそばまで進み寄ると、探偵の耳に口を近づけ、何やらボソボソとささやき始めたのです。
そして、しばらくの間ひそひそと言葉を交わしてから顔を上げ、再びニッコリと笑いました。
明智探偵は乞食少年の話を熱心にうなずきながら聞いていましたが、聞き終わると、何も言わずに右手を上げ、奇妙な合図を送りました。
すると、乞食少年はだまって机のそばから下がり、もとの窓へと駆け寄ると、ヒラリと外の闇へ姿を消してしまいました。
こうして、捜査一日目を明智探偵は自分の部屋に閉じこもったまま何をするでもなく過ごしましたが、二日目もまったく同じことが続いたのです。
探偵は一歩も外出せず、相変わらずのんきそうに数学の問題に夢中になっていました。
退屈で仕方がないと言わんばかりの様子です。
夜になると、時間もやはりちょうど八時ごろ、昨晩と寸分たがわぬことが起こりました。
例の乞食少年が窓から忍び込んできて、ボソボソと探偵の耳に何ごとかをささやくと、また窓から立ち去っていったのです。
読者諸君、これはいいったい何を意味するのでしょうか。
明智探偵は殿村との勝負にかぶとを脱ぎ、捜査を諦めてしまったのでしょうか。
まさか、そんなことはないはずです。
だとすれば、明智が一歩も外出しなかったのはなぜでしょう。
もしかしたら明智は、何か奇想天外な手段を使って、勝負相手の殿村をアッと言わせるつもりなのかもしれません。
では、それはいったいどんな手段なのでしょうか。
また、あの奇妙な乞食少年は、そもそもいったい何者だったのでしょうか。見るもむさくるしい乞食のくせに、明智の耳に口をつけんばかりにして、ボソボソとないしょ話をするなんて、じつに奇怪せんばんな話ではありませんか。

怪屋の怪

 いよいよ約束の三日めがきました。
相川技師長は、ふたりの探偵のどちらが先に吉報をもたらしてくれるかと、首を長くして待っていましたが、待っても待っても、なんの知らせもなく、とうとう日が暮れてしまいました。
あんなに約束をしておきながら、やっぱりだめだったのかと、ほとんどあきらめて帰宅の用意をしているところへ、ひとりの給仕が、名刺を持ってとんできました。
殿村弘三がたずねてきたのです。
さっそく応接室に通して、面会しますと、殿村は相川氏の顔を見るなり、さもとくいげにいうのです。
「お約束のとおり、とうとう賊の本拠をつきとめました。
明智小五郎はまだやってこないでしょうな。
それごらんなさい。
この勝負はわしのかちじゃ。
では、あんたもいっしょに来てくださらんか。
途中で警視庁へ寄って、係りの刑事たちを同道して、それからいよいよ賊の本拠へ乗りこみますのじゃ。」
「おお、そうでしたか。
ありがとう。
もししゅびよく書類を取りもどし、子どもをさがしだすことができたら、こんなうれしいことはありません。
で、その賊の本拠というのは、いったいどこにあるのですか。」
 相川氏は報告に、相好をくずしてたずねるのです。
「いや、それは今にわかります。
壁に耳ありじゃ。
うかつにしゃべることはできません。
なんにしても、わしと同道してくださればよろしいのじゃ。」
 そこで、相川氏も深くは問わず、まだいのこっていた重役にこのことを伝えておいて、会社の自動車に殿村と同乗し、警視庁へと急가せました。
警視庁には、おりよく、この事件担当の中村捜査係長もいあわせ、殿村の報告を聞きますと、ともかくその真偽をたしかめてみようということに一決し、部下の刑事数名を引きつれ、二台の自動車に分乗して、いよいよ賊の本拠をおそうことになりました。
殿村のさしずによって、自動車がとめられたのは、麻布の六本木の、とあるさびしい屋敷町でしたが、一同はそこで車をおり、殿村のあとにしたがって、暗い町を半キロほども歩きますと、赤れんがの塀にかこまれた、古風な洋館の前に出ました。
読者諸君は、よくごぞんじの怪人蛭田博士の邸宅です。
「みなさん、ここが犯人のかくれがです。
しずかにしてください。
相手にさとられてはなんにもならん。
ところで、犯人が逃げださぬように、手分けをして、出入口をかためていただきたいのじゃが。」
 殿村のことばに、中村係長は刑事たちに命じて、洋館の表口と裏口を見はらせることにしました。
「では、わしたち三人だけで、ひとつ案内をこうてみましょう。
仕儀によっては、戸を蹴やぶってもふみこまねばならぬが、最初は、まずおだやかにあたってみるのがよろしい。」
 そこで、殿村と捜査係長と相川技師長の三人が、しずかに門内にはいっていきました。
ところが、洋館の玄関まで行ってみますと、みょうなことには、その入り口のとびらが、ひらいたままになっていて、家の中には電灯の光もなく、まるであき家のような感じなのです。
「おや、おかしいぞ。
こんなはずはないのじゃが。」殿村探偵が、背中をまるくして、小首をかたむけました。
「犯人は、目ぼしをつけられたと知って、逃げてしまったのじゃないか。」捜査係長が、ささやき声でいいます。
「いや、そんなはずはない。
わしはけっして相手にさとられるようなヘマなことはしておりません。
ともかく中へはいってみようじゃありませんか。」殿村はそういったまま、ツカツカと洋館の中へはいっていきましたが、やがて、壁のスイッチをさがしあてたとみえ、廊下の電灯がパッと点じられました。
「こちらへ。
この廊下の奥に犯人の書斎があるはずです。
ひとつそこをさがしてみましょう。」
 殿村はこの家のようすは何もかもこころえているらしく、先に立って廊下を奥へ奥へと進んでいき、ふたりを例の書斎へと案内しました。
ところが、書斎へはいってみても、そこもガランとして、人のけはいもないのです。
「おかしいぞ。
じゃあ、やっぱり風をくらして逃げたのかな。
しかし、まださがす場所があります。
このいえには地下室があるのです。」殿村はいいながら、書斎の大机の上にあった燭台のろうそくに火をつけ、それを持って、正面の書だなの前に近づき、たなの中段から二、三冊の洋書をぬきとって、そのすきまへ手を入れ、何かしたかと思うと、ふしぎ、ふしぎ、書だなの一部が、まるでとびらのように、音もなくひらいて、その奥に秘密部屋があることがわかってきました。読者のみなさんは、この本棚のしかけをとっくにご存じですが、はじめて見る相川さんと中村係長は、あまりのふしぎさに、あっけにとられてしまいました。
そして、殿村探偵が、よくここまでしらべたものだと、すっかり感心してしまったのです。

「この奥に、地下室へおりる階段がありますのじゃ。」
殿村は得意そうに説明しながら、ろうそくをかざして先に立ち、読者のみなさんもご存じの衣装部屋のような密室を通りすぎて、せまい階段をおりていきます。

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