自分が本当に書きたいものと、作家として書かなければならないもの(「書かなければならないもの」の中身については、もっと詳しく触れるべきだけれど、ここではひとまず省く)の結びつきというものは、政治的な生活と文学的な生活がただバラバラに存在している――つまり、党員としての生活とふつうの市民としての生活が、ただ二枚の板を重ねたように別々にそこにあると肯定するだけでは、決して見つからないものなのだ。
現代では、「政治がいちばん大事だ」という考え方を、あまりにも苦しくなるほど単純に受け止めてしまっている人たちがいる。
そのズレに苦しんでいるのは、熱田五郎さん一人だけではない。
そうした政治の物足りなさや貧しさを補っていくためには、民主的な政治そのものがしっかりと中身を伴って成長していくことが望まれると同時に、文学は文学の側から、自分たちが持っている独自の良さの中に、もっと人間らしい豊かな政治性を育てていかなければならない。そして、政治というものの多面的なすばらしさを、作品によって証明していかなければならないのだ。
それこそが、作家の立場にいるわたしたちがしっかりと理解していなければならない、いま一番大切な仕事だとわたしは思っている。
したがって、わたしだけが特権を持っているかのように言う平野さんの前提には、まったく根拠がない。
そんなよりどころのない前提の上に、いくら手の込んだお話を組み立ててみたところで、それは生活の真実でもなければ、文学の現実だとも決して言えないのである。
共産党は、よそ向きの格好つけとしてだけの文化のルールを掲げ、文化の政策について口先だけで語っているのだろうか。
わたしは、決してそうではないと考えている。
いまこの時も、真実の心をもって懸命に努力しているすべての人たちの文化的な足跡や、その仕事ぶり(それは党員である文化人たちだけに限った話ではない)そのものをあたたかく応援し、新しい展開や、人間の精神が大きく成長していける可能性をこの社会の現実の中に切りひらいていくことこそが、党としての本当の責任なのだとわたしは受け止めている。
そのような文化的な責任に対して、直接党と結びついている学者や芸術家たちは、まず自分たちの生き方や仕事のやり方そのものによって、もっと多くの人たちに新しい可能性の扉を開き、その具体的で正しい前進の方法をみんなのものにしていくために、人一倍骨を折らなければならないのだと思う。
平野さんは、この数年のあいだ、民主主義文学について語るときも、小林多喜二について語るときも、そして党について語るときも、何か得体の知れない強いプレッシャー(コンプレックス)から、必死で自分の身を守ろうとしているように見える。
昔、情報局というところで働いていたという経験は、天皇制や軍国主義の絶対的な命令が持つ恐るべき猛烈さを、平野さんにまざまざと見せつけ続けたことだろう。
そんな場所にいながら、そこで行われている仕事を心の中で批判していたという、あの消極的で自分をいじめるような心理は、平野さんの心の中に、まるで治らないしこりのようなものをこりかためさせてしまったかのようだ。
民主的な政治のことも、民主的な文学のことも、どこか信用できなくて、それを疑うことによって自分のよりどころにしているような平野さんが、ひとりの作家に対して何か虫の好かないという自分の主観の角度から批判を加えようとするときには、ふだん自分自身が体をふるわせるほど激しく嫌っているはずの、あの荒っぽくて古い官僚主義的なものの考え方や、間違った政治主義の解釈をそのままそっくり借りてきて、攻撃のための武器にしなければならないとは――これほど大きな自己矛盾があるだろうか。
そのうえ、『新日本文学』に載った「平和運動と文学者」という講演記録の中で、「キドウセイ」という言葉が「軌道性」と間違って書き取られてしまっていたその誤りが、校正の段階でもそのまま見逃されてしまっていたことは、平野さんの話をいっそうおかしなものにしてしまった。
わたしのあの話の11ページや12ページを読んでもらえれば、「キドウ性」が「機動性(きびしく機敏に動き回る力)」のことだということは、普通に読めばちゃんと察しがつくはずだと思う。
少なくとも、「あれ、ここはちょっと変だな」と気づいたにちがいない。
「変だな」と思ったとき、ひとは、それが変だからこそ、誰かを悪く言うのに都合がいいやといって、わざわざそれを引っ張り出して使うものだろうか。
――ましてや、国会の代議士同士の足の引っ張り合いならともかく、文学について語り合う場なのだ。平野さんが、「軌道性なんて変だ、おかしいぞ」と言いながら、評論家としての良心をわざわざその「変な誤字」を攻撃の道具にすることにフル回転させて、わたしという生きている人間の上に、あれほど勝手に縦横無尽なレール(軌道)を敷いてみせたことには、わたしは本当にびっくりさせられた。
民主主義文学についての話を終えてみて、口述筆記や速記の中のひとつの小さな誤字が、ときと場合によって、人間を攻撃するどんな恐ろしい怪物として利用されてしまうのかということを、身をもって学んだ思いがした。
平野さんの話を聞いていた聴衆や読者という人たちは、『新日本文学』のような雑誌を決して読まない人たちなのだと決めつけて、平野さんはあんなふうにおかしな話し方をしたのだろうか。わたしが「討論に即しての感想」「平和運動と文学者」「その柵は必要か」などの文章を通じて一貫して訴えてきたこと――それは、新しい文学のために何を求め、どういう偏った傾向と戦い、どの方向へ心を一つにしていこうとしているのかということです。これらの文章を実際に読んでもらえれば、平野さんが私の言葉を引用して非難していることが、現実とはまったく合っていないということがはっきりと証明できるのです。
作家はむき出しのままで懸命に生き、その作品はひとつの客観的な事実として世の中の人々のもとへ送り出されます。
どのような批判がなされるのも自由です。
しかし、ある評論家が一人の作家の本質に迫ろうとするときには、少なくとも、議論の出発点となるその作家の著作について、その全体を一つの確かな「文学の現実」としてしっかりと読み取ることが、本来の当然の姿勢であるはずです。
一つの文章の中から、たまたま起きてしまった偶然の誤字をいいことに、本来そこに書かれている内容とはまったく違う方向へと結論をねじ曲げ、自分自身のコンプレックスを晴らすために利用することは、決して公正な態度ではありません。それは、文学というものが持っている客観的な真実を重んじる本質そのものを踏みにじる行為です。
『近代文学』の十月号の中で、平野氏はまるで雲に乗った孫悟空のように、自由に動き回る自分自身を誇らしげに見せています。
あるときには、いま目の前にある一つの事実を取り上げて、「作家らしすぎる」といってわたしを非難したかと思えば、次の瞬間には、さきほど非難したその内容とはまったく正反対のレッテルを貼って(たとえば「悪い意味での労働組合の指導者のようだ」などと)、今度は全く逆の角度からわたしを攻撃してくるのです。
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