そのおかげもあり、またミチ子の手厚い看病の甲斐もあって、六日目になると一彦はほとんど普通に歩けるようになりました。
ミチ子は、一彦が病院の庭を歩く後ろ姿を見守りながら、うれし涙をこぼしました。一彦は、もうすっかり元気です。
「さあ、もう大丈夫だ。今日は塩田大尉が来てくださると言っていたけれど、もう見えてもいいころだね」
「塩田大尉が見えたら、何かご用があるの?」
と、ミチ子は心配そうにたずねました。
「うん、僕はね、塩田大尉と約束があるんだよ」
「約束って、どんなこと?」
「約束というのはね、僕を大利根博士のところへ連れて行ってくれるということだよ。しかしこのことは、他人に言っちゃいけないよ。帆村おじさんが怒るからね」
そう言っているところへ、当の塩田大尉が軍服姿も凛々しく、病室へ入ってきました。
出発
1
「やあ、塩田大尉!」
「おお、一彦君か。おや、ミチ子さんもいるね。二人ともうれしそうだな――一彦君、喜んでくれ。今、院長先生に聞いてきたんだが、君の傷はもう大丈夫だそうだよ」
三人は、声をあわせてうれしそうに笑いました。
「塩田大尉、僕との約束のこと、忘れていませんね?」
「え、約束? うむ、あのことか。しかしあのことはまあ、僕にまかせておいて――」
「いやだなあ、そんなことを言っているなんて。僕はどんなにか待っていたんですよ。ぜひお伴させてください。それが帆村おじさんを救う近道のように思うんです」
塩田大尉はしばらく無言でいましたが、やがてミチ子に向かい、一彦を連れて行ってもいいかと尋ねました。
ミチ子はもちろん賛成しましたので、「それならば」と塩田大尉は立ち上がりました。
「僕が心配する理由は、いずれわかるだろうが、とにかく変り者の大利根博士のところへ行くのは、これでなかなか大仕事だよ」
塩田大尉は二人の頭をなでながら、ほんのちょっぴり、心の内を明かしました。
大尉は、帆村の伝言を聞いてからというもの、いろいろ考えた末に、大利根博士を訪問することをたいへん重大なことだと思うようになったのです。
一体、何がそんなに重大なのでしょうか。
ミチ子に別れを告げ、一彦は塩田大尉とともに海軍の自動車に乗って出かけました。行き先は、東京近郊にある大利根博士の研究所でした。
自動車が博士の邸宅に近づいたとき、塩田大尉は一彦に向かって言いました。
「一彦君は、伝書鳩(でんしょばと)を知っているかね?」
「伝書鳩ですか。知っているどころか、僕は鳩の訓練も上手なんですよ」
「そうかい。それはえらい。では君に伝書鳩を二羽あずけておこう。これで、腰にさげておきたまえ」
そう言って、大尉は脚に環をはめた鳩を渡しました。
2
「この伝書鳩は、いつ放すんですか?」
と一彦は塩田大尉の顔を見上げて言いました。
「放すのがいいときがくれば、きっとそれとわかるだろうよ」
と塩田大尉は、謎のような言葉を投げかけました。
いよいよ自動車を降りました。ここは大利根博士邸の門前です。大尉は無造作に、門のところについているベルのボタンを押しました。
しばらく待ちましたが、門内からは何の答えもありません。
「何も返事がありませんね」
「うむ、返事がない。そうだ、返事がないのがあたり前かもしれない。リンリン、リーン、リンと、特別な鳴らし方をしなければ奥へ通じない規則があったね。それを今思い出したよ」
そう言って塩田大尉は、ベルのボタンを押し直しました。
リンリン、リーン、リン。
するとどうでしょう。リーン、リーン――と、返事のベルが門柱の上で鳴りました。
そして、城のように高い壁にはめ込まれていた門の扉が、ギイッと内側へ開いたのです。それは、人がくぐり抜けるような小さな扉でした。
「さあ、入ろう」
塩田大尉は一彦をうながして、その小さな門をくぐりました。
「大利根博士は、お屋敷にいらっしゃるのですね。ベルが鳴りましたから」
「まあ、どうだろうな」
「だって、今のベルは特別な合図を送ったので、その返事として鳴ったのでしょう? 博士にちゃんと聞こえたに違いありませんよ」
「そうかなあ」
二人は洞窟のような通路を、どんどん奥へと歩いていきました。やがて、玄関が見えてきました。
3
大利根博士の玄関には、有名な電話機があります。博士と面会するのはとても難しいことで、まずはこの電話機で用件を伝えてからでないとダメだと言われていたのです。
塩田大尉は一彦少年に目配せをして、この電話機を取り上げました。
「もしもし、私は塩田大尉ですが、博士にお目にかかりたい急な用事があってまいりました」
大尉は、相手に聞こえているかどうかも気にせず、受話器に向かって声を吹き込みました。
「……」
何の返事もありません。
「もしもし」
塩田大尉はさらに声を大きくして言いました。
「博士はご不在なのでしょうか」
と一彦は大尉を見上げて言いました。大尉は首を振りました。
「――なにしろ急用ですから、失礼して中に入りますよ」
すると向こうから、電話越しに返事がありました。とても低い声だったので、何を言っているのかよくわかりません。
「何ですか、よくわかりませんよ。中に入ってから、改めてお話しすることにします」
と、大尉は平然とした様子で、玄関の扉を開けました。
「さあ一彦君、一緒においで」
大尉はずんずんと中へ入っていきました。奥の方まで長い廊下が続いていましたが、そこをどんどん進んでいくのでした。
(人の家へ断りもなく入ってしまって大丈夫かなあ)
と一彦は心配しましたが、大尉は平気な顔をしています。もっとも、家の中には誰一人姿を現さないので、怒る人もいないのです。
「さあ、向こうの突き当たりが、博士の居間なんだ。万事あそこへ行けばわかる」
4
大利根博士の部屋の前へ来ました。暗い廊下の突き当たりに、重い扉がぴったりと閉まっています。塩田大尉と一彦少年は、その扉の前に立ちました。
「博士はいらっしゃるでしょうか」
と、一彦はそっと塩田大尉に尋ねました。
「さあ、どうかな」
と言いながら、大尉は扉をコツコツとノックしました。部屋の中からは、何の答えもありません。
大尉は続けてコツコツと扉を叩きました。けれども、扉の向こうからはやはり何の返事もありません。
「博士はご不在なのですかねえ」
「ふうん、どうかなあ」
塩田大尉は首を少し傾げました。博士が有名な人嫌いであることを考えると、本当に留守なのかどうかわかりません。
そこで大尉は決心して、扉の前で大声を張り上げました。
「ああ、もしもし、大利根博士!」
部屋の中は、相変わらず静まり返っています。大尉はさらに声を励まして、
「ああもしもし、大利根博士! 私は塩田大尉です。急用ですから、ちょっとここを開けてください」
それでもまだ、部屋の中はしんとしています。
「ああ、もしもし、大利根博士!」
三たび大尉は、扉の前で叫びました。さっき電話をかけたとき、話の内容はよく聞き取れなかったけれど、博士か誰かわからないものの低い声で返事をした者がいたので、大尉の声をせめてその者が聞きつけて出てきそうなものだと思ったのです。
ちょうどその時でした。扉の向こうから怪しい声が聞こえてきたのは。
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