初級翻訳・怪塔王 第51話

怪塔王

いきなり君に声をかけられたのでね」
 そこで帆村探偵は、言葉を改めて、
「博士、貴方は今までどこに隠れていらっしゃったのですか」
 と尋ねました。
「うん、それはその、何だよ。君も知っているだろうと思うが、われわれが今立っているところの下に、海底牢獄がある。それは皆で五つ六つあるそうだが、その一つに押し込められていたのだ。そこを何とかして逃げたいといろいろ計略をめぐらした結果、やっと今日は逃げ出すことができたのだ。こんなにうれしいことはない」
「そうでしょうとも。お察しします。博士が無事だということが内地に知れ渡ると、皆びっくりすることでしょう。そしてどんなに喜ぶかしれません」
 それを聞くと、博士はほっとため息をついて、うなずきました。

5

「それで博士、貴方が、その岩をこっちへ登っておいでになるとき、怪塔王の悲鳴をお聞きになりませんでしたか」
 帆村探偵は、さっきから聞きたいと思っていたことを大利根博士に問い正しました。すると博士は、大きくうなずき、
「ああ、たしかに聞いたとも。たいへんな声が頭の上で聞こえた。かと思うと、人間が上から降ってきて、谷底へ落ちていった。あれが怪塔王だったのか」
 帆村は、それを聞いて目を輝かせ、
「ああ、博士もそれを御覧になったのですか。それは幸いでした。それで怪塔王は、結局どのような最期を遂げましたでしょうか」
「うん、それは――」と博士は、くるっと目を動かし、「それははっきり覚えていないが、なんでもその怪塔王の体は、谷底の岩の上に叩きつけられた。そのとき、苦しそうな声を出した。そこで岩につかまっていたわしは、こわごわ下をのぞいた。ところがそのとき怪塔王の姿は、岩の上になかった」
「ほほう、すると怪塔王は逃げたのでしょうか」
「いや、そうではないよ」と博士は強く首を振って、「怪塔王の体は一旦岩に当たってから、勢い余って跳ね上がり、ざんぶと水中におちたのだ。あそこは、とても逃げられるようなところではない。尖った岩の間を縫って、冷たい真っ黒な海水が、渦を巻いて行ったり来たりしている。この世の地獄みたいな洞穴なんだ」怪塔王とて、生きて助かる見込みはありませんよ」
 博士は、怪塔王の死を固く信じているようです。
 帆村探偵は、大きくうなずき、
「なるほど、そこに見える岩の割れ目の向こうは、そんなに恐ろしい場所なのですか。しかし、悪運の強い怪塔王のことですから、ひょっとして不思議にも一命を取り留めていないとも限りません。これから僕は谷底へ下りて、怪塔王の死体が浮いていないか調べてみます」

   滑る断崖

   1

 帆村探偵は、あくまで怪塔王の死を突き止める決心でいました。
 先ほど大利根博士が語ったところによれば、怪塔王は岩の上に落ちて体をひどく打ち、それから真っ黒な海水が渦を巻いている淵へ落ちたといいますが、帆村としては、一応どうしても自分の目で確かめるつもりなのです。
「大利根博士、では、案内していただけませんか」
「そうだね、わしはひどく疲れているのだが……」
 と博士は口ごもりましたが、やがて思い直したように、
「うん、よろしい。外ならぬ遠来の珍客のことだから、案内してあげよう。こっちへ来なさい。ここから下りるのだ」
 博士は魚油灯を持って先に立ち、はやそろそろと岩の根を伝って下りていきます。
 帆村探偵は、初めて見る恐ろしい断崖にめまいを感じながら、博士に続いて慎重に下りました。
 博士はなかなか元気で、先に立ってするすると下りていきます。ともすれば帆村は遅れてしまいそうです。
(博士は元気だなあ。それに、この洞窟のことをよく知り尽くしているようだ)
 帆村は、心の中でひそかに感心しました。
 博士の持っている魚油灯は、すでに断崖を下りきって、洞窟の底にある岩の上で薄ぼんやりとした光を放っています。
 このとき、博士の目がきらりと光りました。博士の視線は、今しも岩の根につかまって下りることに夢中になっている帆村の上に、じっと固定されていました。帆村は、博士がそんな恐ろしい目つきをして自分を睨んでいることには気づいていません。
「あっ、しまった!」
 一声、帆村が叫びました。
 彼は濡れた岩の根で、あっという間に足を滑らせ、ずるずるとどすんと、博士の立っている足元まで滑り落ちました。

 2

 どうも腑に落ちないのは、大利根博士の素振りです。
 今も、帆村が足を滑らせてあっという間に博士の足元まで岩を滑り落ちたので、博士もはっと気圧されて、それっきりになりましたが、もしあのとき帆村が滑り落ちずに断崖につかまってぐずぐずしていたら、博士が次にどんな怪しい振る舞いをしたか分かったものではありません。
 そういえば、あのとき博士の右手はすでに腰のあたりに伸び、何かピストルでも探ろうとしたらしいのです。
 ずるずると博士の足元へ滑り落ちた帆村探偵の幸運を、彼のために祝ってやらねばなりません。そうです、全く油断のならない大利根博士と名乗る人物なのです。
 あの利口な帆村探偵も、まだそれに気づいていないのでしょうか。あたりには味方の姿もない恐ろしい洞窟の中です。一度は危難を免れた帆村の身に、これからどんな災いが降りかかることでしょうか。それを思うと気が気ではありません。
「大利根博士、僕はもう少しで腰骨を折るところでしたよ。あ、驚いた」
 博士は急に作り笑いを浮かべて、
「全く危ないところだから、いつも足元に気をつけていたまえ」
「はあ、ありがとうございます。なに、もう大丈夫です」と、帆村は博士の横に立ち上がり、「そこでお尋ねしますが、怪塔王が体をぶつけた岩というのは、一体どの岩でしょうか」
「ああ、その岩かね……」博士は口ごもりながらあたりをきょろきょろと眺め、「ええ、その岩というのは……そうだ、確かあの岩だったと思うよ」
 そう言って博士が指さした先を見ると、二人の立っているすぐ目の前に、渦巻く海水に取り囲まれた、小さな島のような平らな岩がありました。

 3

 怪塔王が体を打ち付けたのはあの岩だと大利根博士が指さしたので、帆村が見ると、それはものすごい潮の流れに取り囲まれた小さな島のような岩礁でした。
「ああ、あれですか。すごい岩ですね。怪塔王の体はあの岩に当たって、それからどの辺へ跳ね落ちたのですか」
 帆村探偵は何気なしに尋ねました。
「ううん、それはこっちだ。あの岩礁の左の方だ」
 帆村探偵はそれを聞くと、不思議な気がしました。
 怪塔王の体が岩の割れ目から落ち、目の前に見える岩礁に突き当たったとして、もしはずみをくらってさらに潮の流れへ飛び込んだものとすると、どうしても岩礁の向こう側に落ちるはずです。それが左に落ちたとは、不思議なこともあるものです。
 次に帆村は、大利根博士に頼んで魚油灯を貸してもらいました。そして、その魚油灯で岩礁の上を照らしてみました。
帆村は、怪塔王が体をぶつけたのなら、きっと岩礁の上に血の跡が残っているはずだと考えたのです。
その血が見つかれば、死の証拠になります。
ところが不思議なことに、血のようなものは岩礁の上に全く見当たりません。
かといって、潮が洗い流してしまった様子もありませんでした。

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