(千葉県君津郡関村関の『上総町村誌』)
「咳のおば様」という存在は、実はもともとこの「関の姥神様」だったのが、「せき(関)」という名前のひびきから、いつの間にか人々が「咳(せき)の病気」のときばかりにお祈りをするようになったのではないか――。
そんな説を、江戸の学者である「行智法印(ぎょうちほういん)」という人が、もう百年以上も前に自分の本(『甲子夜話』の六十三巻)の中で述べています。もっとも、この学者は上総の関村に「おば石」というものがあることまでは知りませんでした。
しかし、「関の姥神様」はもちろん、上総と安房(あわ)の国境だけにいたわけではありません。
一番有名なものでは、京都から近江(おうみ)へ抜ける峠である「逢坂の関(おうさかのせき)」に、「百歳堂(ひゃくさいどう)」と呼ばれて建っていたお堂も、もとは姥神様だったのではないかというお話があります。
のちの時代になると、「関寺小町(せきでらしこまち)」といって、あの美しい小野小町(おののこまち)が歳をとってからこの場所で暮らしていたという伝説が生まれ、今でもお寺にある木像は、短冊と筆を手に持ったおばあさんの姿をしています。しかし、その昔は、これももっと恐ろしい顔をした石の像であり、さらにその大昔は、ただの自然の石だったのかもしれません。
言葉の「せき」とは、すなわち流れを「塞(せき)とめる」という意味であり、旅の安全を守る道祖神の「さへ(塞の神)」と同じことなのだと、行智法印なども語っています。
たしかに、関東地方の道祖神には、石に男と女の神様の姿が仲良く彫刻されているものがたくさんあります。「姥石(うばいし)」のほうも、もとはといえば「爺石(じじいし)」と二つ並んで立っていたものがたくさんあったのです。
ところが、人々の間で「おばあ様(婆様)」ばかりが大切にされるようになるにつれて、二つの石はだんだんと片方が失われ、離れ離れになっていきました。
これには、地獄の「閻魔(えんま)さま」への信仰がどんどん盛んになるにつれて、「三途の川のばあ様」の木像があちこちのお寺におまつりされるようになったことが、大きな原因の一つだったのかもしれません。
お寺では、このこわい顔をしたおばあさんのことを「奪衣婆(だつえば)」と呼んでいます。
人間が死んだあと、地獄へ向かう途中に流れる「三途の川」の川岸に陣取って、この世からやってきた悪い亡者たちの着物を無理やり剥ぎ取る役目をするということで、とても有名なおばあさんです。
『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経(ぶっせつじぞうぼさつほっしんいんねんじゅうおうきょう)』という日本で作られたお経の中に、このことがとても詳しく書かれています。それを見ると、奪衣婆が決して「おひとりさま(後家)」というわけではありませんでした。「懸衣翁(けんねおう)」というおじいさんの神様が、ちゃんとペアの相方として存在していたのです。
お経の中には、「婆鬼(ばき)は人の盗みの罪をいましめて両手の指を折り、翁鬼(おうき)は義理に背く心をにくんで頭と足を一つの場所へぐっと押しつめる」と書かれており、この二人はまるで夫婦のように仲良く描かれているのですが、お寺などに作られる木像は、なぜかおばあさんである奪衣婆のほうばかりが好んで作られました。
これにもまた深いわけがあるのですが、みんなにとってはそんな難しいお話は退屈かもしれませんね。
とにかく、人々がこの「奪衣婆」を熱心に拝むようになってからというもの、各地の姥神様もだんだんと「一人きりの姿」になり、その顔つきも少しずつ恐ろしいものへと変わっていったのです。
江戸の町で、「関のおば様」にお供え物として炒った豆をあげるようになった頃から、東京市内の大きなお寺にも、数十ヶ所もの「木像のおばあさん」が次々と作られるようになりました。今でもまだ、あちこちのお寺でお盆の時期になると、熱心にお参りをする人たちの姿が見られます。それからは、流行り病がはやる時期になると、こわい顔をしたおばあさんが家に入ってくるのを見かけた、というような話がだんだんと増えていきました。
「甘酒婆(あまざけばば)」といって、「甘酒はないか」と言いながら家に入ってくるおばあさんが、実は疫病神(やくびょうがみ)なのだといううわさもよく広がっていました。
可愛い子供を持つ親たちは、そういうときには急いでどこかのおばあさんの神様にお参りしたのです。
「関のおばさま」が江戸でこのように有名になったのも、きっと性質の悪いインフルエンザのような風邪がはさんだ年が始まりだったのではないか、と私は思っています。
それにしても、「せきのおば様」というような古い名前が残っていながら、どうしてこんな石のおばあさんの像のところへ、子供の病気を相談に行くのかは、いつの間にか分からなくなっていたようです。
三途の川(さんずのかわ)の「三途の川」という言葉なども、もとはといえばやっぱり「関(せき)」ということでした。
三途の川は、ニセモノの十王経(じゅうおうきょう)などには「葬頭河(そうずか)」とも書いてありますが、そんな地名が仏教の方に昔からあったわけではなく、「そうずか」とは日本語でただ「境界(きょうかい)」という意味だったのを、あとになってから誰かがこんな難しい漢字をあてはめたのです。
富士山やほかの神聖な山に登る入り口や、大きなお宮にお参りする道には、たいていそういう場所があります。
「精進川(しょうじんがわ)」と書くのがいちばん一般的で、実際そこには水の流れがあって、お参りに来た人たちはその水で体を清めたようですが、それが言葉の本来の意味を表したものであるかどうかは、まだはっきりとは分かっていません。
ただ、そこが神様の領分の境界であるために、いっそう厳しく身をつつしみ、また境界を守る神様を拝んだようなのです。
昔の関の姥神(うばがみ)は、おそらく連れ合いの「おじいさんの神様」といっしょに、ここでまつられていた石の神様だったのだろうと、私などは考えています。
それを、仏教のほうで活動していた人たちが自分たちのものとして持ち帰り、地獄へ行く道の途中にある「瀬の川(せのかわ)」の鬼婆(おにばば)にしてしまったのです。
だからこそ、この世にある全国の「そうずか」には、多くの場合「奪衣婆(だつえば)」の像がまつられているのです。
日本本土の一がいちばん北の端にあるのは、奥州(おうしゅう)の外南部(ととなんぶ)にある正津川村(しょうづかわむら)の姥堂(うばどう)で、私も一度お参りをしたことがあります。
東海道では、尾張(おわり)の熱田(あつた)の町にある姥堂が、昔からとても有名なものでした。
ここは、熱田神宮の精進川に架かっている「御姥子橋(おうばこばし)」、別名「さんだか橋」のたもとにあるお堂で、もとは一丈六尺(約4.8メートル)もある大きな奪衣婆の木像が置いてあったために、「熱田神宮は、もともとは閻魔王宮(えんまおうきゅう)なのだ」などと、おそれ多いことを言う人さえいましたが(『紹巴富士見道記(じょうはふじみどうき)』)、これは姥神様の本来の姿を忘れてしまった人たちの言うことにすぎません。
コメント