初級翻訳・月夜とめがね 第2話

小川 未明

おばあさんは、いい香水のにおいが、少女の体にしみ込んでいるとみえて、こうして話しているあいだに、ぷんぷんと鼻をくすぐるのを強く感じました。
「それなら、おまえは、私を知っているのかい?」
とおばあさんは尋ねました。
「私は、この家の前をこれまで何度も何度も通って、おばあさんが、窓の下で針仕事をつづけていらっしゃるのをいつも見て知っています。」
と、少女は答えました。
「まあ、それはいい子だねえ。
どれ、そのけがをした指を、私に見せなさい。
なにかお薬をつけてあげようね。」
とおばあさんは言いました。
そして、少女をランプの明かりの近くまでつれてきました。
少女がかわいらしい小さな指を出して見せますと、まっ白な指先から赤い血がツーっと流れていました。
「ああ、かわいそうに、石でうっかりすりむいて切ってしまったんだね。」
とおばあさんは心の中で言いましたが、さっきめがねをとってしまったので目がかすんでしまい、どこから血が出ているのかよく見えませんでした。
「さっきのめがねはどこへいったかね。」
とおばあさんは、棚の上を急いでさがしました。
めがねはちょうど目ざまし時計のすぐそばに置いてあったので、さっそくそれをかけて、少女のきず口をよく見てやろうと思いました。
おばあさんはめがねをかけ直して、この美しい、たびたび自分の家の前を通ったという少女の顔を、今度こそよく見ようとしました。
すると、おばあさんはびっくり仰天して、腰を抜かすほどたまげてしまいました。
それは人間の少女ではなく、きれいな一羽の蝶々だったのであります。
おばあさんは、こんなにおだやかな月のきれいな夜には、ときどき蝶々が人間に化けて、夜おそくまで明かりをつけて起きている家を訪ねてくることがあるものだという昔話を、ふと懐かしく思い出しました。
その蝶々の少女は、片足をいためていたのです。
「いい子だから、こちらへおいで。」
とおばあさんはやさしく言いました。
そして、おばあさんは先頭に立って歩き、戸口から出てうらの花園の方へとまわっていきました。
少女の姿をした蝶々はだまって、おばあさんのあとについてトコトコと歩いて行きました。
花園には、いろいろな花が、いまを盛りとあでやかに咲き誇っていました。
昼間は、そこにたくさんの蝶やミツバチが集まってきていて、とてもにぎやかでありましたけれど、いまは、葉っぱのかげですてきな夢を見ながらぐっすり休んでいるとみえて、あたりはすっかり静まりかえっていました。
ただ、まるで水のように月の青白い光がサラサラと流れ落ちていました。
あちらのかきねには、白い野ばらの花が、こんもりとかたまって、まるで雪のようにまっ白に咲いていました。
「少女はどこへ行ったんだい?」
とおばあさんは、ふいに、びっくりして立ちどまり、うしろをふりむきました。
しかし、あとからついてきていたはずの少女は、いつのまにか、どこへ姿を消してしまったのか、足音ひとつ立てずにすっかり見えなくなっていました。
「みんなおやすみ。どれ、私もそろそろねようかね。」
とおばあさんは独り言を言って、ゆっくりと家の中へはいって行きました。
本当に、言葉にできないほどすばらしい、きれいな月夜でありました。

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