初級翻訳・村で一番の栗の木(五場) 第5話

岸田 国士

別に行ったってしょうがないんだけど、家のことで、また何かと世話になる奴も来るしするから、顔だけでも出しておこうと思うんだ。
遅くなっても泊まらずに帰ってくるよ。
終列車に乗れば、明日の昼には帰れるからさ……。
あや子 そう……じゃあ、仕方がないわね。
それで、もうすぐお出かけになるの?
亮太郎 今、馬車を呼びに行かせてあるんだ。
(間)洋服にしようか。
あや子 どちらでもいいけれど……。
白いのだと、洗濯をしなくちゃダメでしょ。
着ていらっしゃるそのままだし。
ああいうものの洗濯なんか、一体どうするのかしら――そうそう、聞いておこうと思ってたのよ……。
亮太郎 じゃあ、和服にしよう。
あや子 でも、袴(はかま)がいるでしょ。
亮太郎 いらないさ。
いるもんか。
(間)じゃあ、出してくれ。
(立ち上がる)
あや子 (やや声を落として)昨日の夕方ね、お母さんがおっしゃったのよ――あのね、保次郎さんの単衣(ひとえ)で、もう着られるものがないんだって……。
だから、古いのていいから、亮太郎のを一枚やってくれっておっしゃるの。
亮太郎 やったらいいじゃないか。
あや子 ええ、それがね、浴衣なら二枚あるけれど……単衣は、ちょっとしたお出かけ用と、よそ行きと、一枚ずつしか持ってこなかったでしょう。
どうしようかしら……。
亮太郎 よそ行きをやったらいいだろう。
あや子 でも……あなたが……。
亮太郎 いいから、やってやりなよ。
今日は、じゃあ、少し暑いけれど、もう一つの洋服を着ていこう。
あや子 そうなさる?
亮太郎 そうするより、仕方がないだろう。
あや子 今日は、いい方を着ていらして、それを、明日、どうにかしたらどうかしら……。
一日くらい伸びたって……。
亮太郎 それじゃあ、まずいよ。
すぐ出してやりたまえ……。
あや子 お母さんは、やっぱり、保次郎さんが可愛いのね。
亮太郎 だからって僕が可愛くないっていうわけじゃないよ。
あや子 いいえ、少し変だわ。
あたし、そんなこと言われてさせられるのは、嫌よ。
だって、あの方、着物なんて改まってお召しになることがある? ないじゃないの。
あたしが旅行鞄を開けているのをご覧になって、急におっしゃるのよ、お母さんは……。
ちゃんと分かるわ。
年寄りって嫌なものね。
亮太郎 おい。
あや子 はい……。
ごめんなさい……。
(間)あ、あの馬車じゃないかしら。
あんなに埃を立てて……。
(両人去る。舞台、しばらく空虚)
(保次郎、うつむき加減に、鍬(くわ)を肩にかついで、ゆっくりと歩いてやって来る)
(彼は、古い紺色のズボンに巻き脚絆(げはん)をつけ、上はシャツ一枚、帽子をかぶらずに髪の毛を長く伸ばしている)
(ちょっと立ち止まって、あたりを見回す)
(また歩き出す)
(栗の木の根元に、鍬を投げ出し、両腕を腰にあてて、しばらく目を細くして遠くの方を見つめている)
(ふと、何か考え込むように、空を仰ぐ)
(溜息をつく)
(どっかりと、むしろの上に腰を下ろす)小さな本を取り出してページをパラパラとめくるけれど、それをずっと読むわけでもなく、地面に置いてまた大きな溜息をつく。
首を何度もぶんぶんと横に振る。
そして、疲れたように頭を木の幹にもたれかからせる。

第三場

前の場面と同じ場所。
月夜。
遠くの方からお祭りの太鼓の音が聞こえてくる。
あや子が栗の木の下にかがみ込んでいる。
そこへ亮太郎がやって来る。

あや子「いったいどこを歩いていたの……こんなに遅くまで。みんな心配していたのよ」

亮太郎「心配することなんてないさ。まさか自分で命を絶ったりしないからね」

あや子「そういう心配じゃないわよ。あなたって、すぐそういう極端なこと言うんだから……」
(少し間があく)
あや子「途中で、保次郎(やすじろう)さんには会わなかった?」

亮太郎「保(やす)なら、さっきあそこにいたじゃないか。違うかい?
いや、会わなかったよ。
月夜だから道に迷う心配もないし、水車小屋を通り抜けて、釣橋のところまでぶらぶら歩いて行ったんだ。
頭の痛いのもすっかり治ったよ」

あや子「それならよかったわ。あたし、またあなたがどこかへ行ってしまったのかと思って……。
お散歩の時はいつもそう言って出かけるんだもの……」

亮太郎「その辺をちょっとひと回りしてくるつもりだったんだけど、つい、ずるずると引っ張られていってしまったんだよ」

あや子「……」

亮太郎「月の光にさ……。
月の光っていうものは、人をどこまでも連れていってしまうものなんだ。
あれは本当に不思議だよ。
自分から吸い込まれていくっていうのか、自分が歩いているんじゃなくて、自分のまわりにある空気のほうが、体を包んだまま勝手に流れていくような気がするんだよ」

あや子「もう遅い時間なのよ。何時だと思っているの? そろそろ休みましょうよ」

亮太郎「まあ聞いてくれよ。
こうして立っていると、この栗の木の下はすごく暗いだろう……。
葉っぱがものすごく茂っていて、ここだけが影になっているせいなんだ。
ところが、遠くから見るとさ、ほら、あの道の曲がっているところね、あの辺から見ると、ここだけがうっすらと、なんだか妙に光って見えるんだよ。
木の葉の間を通り抜けてきた月の光って、やっぱり青くなるのかな。
青くて、しかも、なんだか濡れているような光り方をするんだ。
その光の中に、もちろん君がこうして立っている姿が浮かび上がっていたよ。
もう一人、誰かいるようだったけれど、それははっきりとは見えなかったな。
おそらく、君の影だろうね。
それとも、木の枝の影かな……。
そうだ、この枝だ……」
(と、頭の上の枝をじっと見上げる)
「なるほど、ここにこうして立っていると、自分がいったどこにいるのかさえわからなくなってくるね。
(少し間)
変な木だよ、この栗の木は……。
夜に見るとなおさら不思議だ。
まるで、木の下にいるっていう気がしないんだ。
なんだかこう、頭の上から覆いかぶさってくるような感じがする。
この二、三日は特にそう思うんだけど、この木は何かを考えているよ。
何かをしでかそうと企んでいるんだ。
人がここにやって来ると、まるでわざとみたいに葉っぱが奇妙に垂れ下がってくる。
そうして、頭の上に重たいものをどんどん積み上げていくんだ。
そうすると、なんだか体が痺れてくるような風が吹いてくる。
息が詰まってきそうになる。
じっと立っていられなくなるんだよ。
(少し間)
ほら、もう足が震えてきた。
くそっ……」
(と言って自分の心臓に手をあてる)
「ここがこんなにドキドキして……」
(そう言いながら、ぐったりとその場にへたり込んでしまう)

あや子「(あまりのことにポカンと口を開けて立ちすくむが、すぐに気を取り直して)
あなた、絶対に頭が疲れきっているのよ。
神経衰弱っていうやつだわ。一度お医者さんに診てもらったらどう……?」

亮太郎「大丈夫だよ、平気さ。
(少し間)
なのに、なぜかここへよく足が向いてしまうんだ。
それだけじゃない。
親父に用事があるときは――親父はよくここで仕事をしている。
静かに本を読みたいときは――ここが一番静かだ。

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