初級翻訳・水族館 第4話

堀 辰雄

そうこうするうちに、私達が奇妙で見知らぬ一画に迷い込んでしまったことに気づきました。私達の前方には、全面ガラス張りの、異様に大きな建物がそびえ立っていました。しかも、そのガラスはほとんど全部割れているのです。その穴だらけの建物の向こう側には、すぐそばを隅田川が黒々と流れているようでした。仕事場の跡らしいその建物の中は、伸び放題に伸びた雑草ばかりでした。
彼女はその異様な建物の前にじっと佇んでいました。やがて、彼女が身をかがめて、足元にある石を一つ拾い上げるのが見えました。それから彼女は狙いを定め、まだ一つだけ割れずに残っていたガラスに向かって、全身の力を込めてその石を投げつけたのです。
激しくガラスが割れる音が響きました。破片がバラバラと下へ落ちてくるのが見えました。それから彼女はというと、ひた走りに走り去り、もうそこからだいぶ離れた場所へ達していました。私も彼女を見失うまいと、少しばかり走りました。
彼女はいつの間にか普通の歩調に戻っていました。私もそれに合わせました。しかし、彼女が一体どこへ行こうとしているのか、何をしようとしているのか、私にはさっぱり見当がつきませんでした。
私達は工場の裏を通り過ぎ、田んぼの中を横切り、墓地の中を通り抜けました。そのうちに、私達は再び土手の上に出てしまいました。しかし、そこは白髭橋のあたりではなく、そこからずっと離れた紡績会社の近くであることに気づきました。しかも彼女は、紡績会社の大きな、煤煙で汚れた気難しげな建物の横を通り過ぎながら、なおも川沿いの土手を進んでいこうとしていたのです。
私は、もうこれ以上彼女を追うことを諦めました。あまりにも疲れ切っていたし、彼女の気が狂っていることも十分に確かめられたからです。これ以上彼女に意識を奪われていたら、おそらく私までおかしくなってしまうに違いありませんでした。
私は立ち止まり、彼女の後ろ姿が土手の上に見えなくなるまで見送りました。そしてついに踵を返し、鐘ヶ淵の、川蒸気船の船着場の方へと向かいました。
夜が明けたことを告げる川からの冷たい風が、船着場のベンチの上にへたり込んで眠ってしまっていた私を、静かに目覚めさせました。それから30分ほどして、ようやく千住大橋の方から下ってきた一艘の川蒸気船を捕まえることができました。誰も乗っていないだろうと思っていたのに、その川蒸気船には、意外にもすでに五、六人の客が乗っていました。
それはみんな、魚河岸(うおがし)へ買い出しに行く魚屋さんたちでした。
彼らの元気な話し声と、それを聞いていると心臓がドキドキするようなエンジンの音が、私の眠気をすっかり吹き飛ばしてくれました。
そして私は、早朝の新鮮な空気の中で、生き返ったような気分でした。
私は川の左手に、昨夜見たあのガラス張りの高い建物がそびえ立っているのを見つけました。
私は、隣に座っていた魚屋の一人に尋ねてみました。
「あのガラス張りの建物は何ですか?」
「あれですか」彼は指をさして言いました。
「あれは昔の日活の撮影所の跡ですよ」
私は川蒸気船の中から、無数にあるはずのガラスがどれもこれも残らず割れているのを、不思議そうに眺めていました。
小石を投げつけて、もっと割ろうとしていたあの狂気じみた女の異様な姿を、頭に思い浮かべながら。

それから二、三日たったある日の午後、私はバット酒場の二階の窓から、ぼんやりと下の映画街を行き来する人混みを眺めていました。
すると突然、人混みをかき分けるようにして、大勢の人々があわただしく駆け抜けていきました。
火事だ、と私は直感しました。
そして一分後には、私もまた、その人たちに混じって走っていました。
人々は浅草劇場(もとのオペラ館)の角を曲がって、水族館の方へ向かっていました。
案の定、水族館の前にはものすごい人だかりができていました。
しかしそれは、私の予想に反して、火事ではないようでした。
最初は何が起きているのか分かりませんでしたが、人々は水族館の屋上を見上げながら、しきりにわめいていました。
私はすぐに、その高い屋上で髪を振り乱した女が、あっちへ行ったりこっちへ来たりしているのを見つけることができました。
それは、あの女でした。
彼女はときどき、下の群衆のあらゆる叫び声をかき消すような、鋭くて、人間の声とは思えないような、異様な叫び声を上げていました。

――その日の五時頃、踊り子たちが「ペルシアン・ランプ」を踊っている最中に、突然、三階の一角からピストルの音が響きました。
弾丸は幸いにも踊り子たちの誰にも当たらず、床板にはね返って、背景の幕に穴をあけただけでした。
それは、その時一番前で踊っていた小松葉子を狙ったものらしかったのです。
そして発砲したのは、一人の美少年でした。
しかしその少年は、捕まえようとする人々から逃げようとして、かぶっていたハンチング帽を落としてしまいました。
すると、その下にはふさふさとした女性の髪があったのです。
少年ではなく、男装した一人の女だったのです。
人々が呆然としている隙に、彼女はすばやく屋上へよじ登ってしまいました。
一人の大胆な男が彼女の後を追って屋上に登ろうとすると、彼女はその男に向かって二度目の発砲をしました。
弾丸は男の二の腕をかすめました。
幸い怪我はありませんでしたが、さすがにその男も怖気づいて、彼女を捕まえるのを諦めてしまいました。
その後、誰一人として屋上に登り、彼女を捕まえようとする者はいませんでした。
ただ彼女を遠巻きに取り囲んで、わあわあと叫んでいるばかりでした。

――私の周りの人々の話を合わせると、だいたいそのような出来事だったようです。
夕食時だったので、私の周りから立ち去っていく人もいれば、新しく立ち止まる人もいました。
そんな人々の間で、私は屋根の上で何やら異常な声で叫んでいる彼女を聞きながら、まるで死と向き合っているような吐き気を感じていました。
せっかく駆けつけた警官たちも、彼女がピストルを振り回しているので、どうすることもできませんでした。
警官たちは、屋上の狂女をもっとよく見ようと、水族館の周りを取り囲む大きな木の枝によじ登っていた野次馬たちを、無理やり引きずり下ろすのに精一杯でした。
そうしているうちに約一時間ほどが過ぎ、夜がすぐそこまで来ていました。
しかし群衆はなかなか散ろうとしないばかりか、ますますその輪を広げていきました。
とうとう夜になりました。
屋根の上が暗くなり、彼女の姿もよく見分けられなくなってきました。
ただ、ときどき狂人特有の身の毛もよだつような叫び声が聞こえるばかりでした。
それでも、誰一人としてその場を立ち去ろうとはしませんでした。
そして私たちは、何かを待っているかのようでした。
私たちは一体、何を待っているのでしょうか? それは悲劇でしょうか? いいえ、悲劇なら待つまでもなく、悲劇の中の悲劇が、現に私たちの目の前で繰り広げられているのです。
私たちの好奇心を満たすには、もうこれで十分なはずです。
だから私には、ただ私たちがこの悲劇の幕が下りるのを、じっと待っているかのようにしか思えませんでした。

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