ぴしゃり、ぴしゃり、ぴしゃり。
怪物の頭は散々に殴りつけられました。
が、一向に手応えがありません。
クーパーは椅子を振りかぶり、怪物の頭に叩きつけました。
しかし、それもダメでした。
怪物は平気の平左で、ついにドシンと鈍い音がして、怪物の一匹が船室へと飛び降りました。
いよいよ怪物は、室内に入り込んできたのです。
絶体絶命。
丸窓を通って、怪物たちが続々と船室へ躍り込んできます。
クーパー、パイクソン、マルラの三人は、今や素手で怪物たちに立ち向かいました。
あっちでもこっちでも組み打ちが始まります。
クーパーが組み付いたやつは、中でも体の大きなやつでした。
両目をぐるぐる回しながら、何本ものタコのような足が体中に絡みついてきます。
フゥーッという荒々しい息が顔にかかると、たとえようもない悪臭がクーパーの胸をムカムカさせました。
怪物の足は、しきりにクーパーの目を狙っているようです。
払っても払っても、次々に別の足が、ピシッ、ピシッと顔面を打ちます。
それに加えて、ひどい臭気の嵐です。
クーパーは、今や死が近づいたと思いました。
相手のこの勢いでは、たとえ捕らえられたとしても、命がないことは覚悟しなければならないでしょう。クーパーは、この急所がどこにあるのかもわからない怪物を、すっかり持て余してしまいました。
どこをどう攻撃すれば怪物が参るのか、見当もつかないのです。
ぴしりッ!
ついに目の上を、ひどく打たれました。
クーパーの網膜に、キラ、キラ、キラと星が散りました。
そして急に、あたりがぼーっと見えなくなってしまいました。
怪物の足が、クーパーの小またをすくい上げます。
それからというもの、クーパーは、たとえひとりでも相手を倒して死を免れようと、がむしゃらに暴れ回りました。
こぶしを固めて、相手の体当たりするところかまわずぶんなぐりました。
顔のあたりにぞろりと当たるものを、歯を食いしばってがぶりとかみつきました。
両足を使って、宙を蹴飛ばしました。
もう「なんとでもなれ!」という気持ちです。
その格闘は、一年も長く続いたように感じられました。
それほどまでに張り詰めた、数十分間の出来事でした。
やがてクーパーは、ついに死んだようにぐったりとなりました。
もうすっかり気力も、体力も出し切ってしまったのです。
「マルラ、いないか。おい、パイクソン」
クーパーは、苦しい声をひきしぼって、ふたりの仲間の名を呼びました。
しかし、だれもそれに返事をしません。
そのうちにクーパーは、自分の体がふわりと浮き上がったのを感じました。
まるでスプリングの上にのっているような、不思議な気持ちでした。
キキキッ、キキキキッ、キッ。
「おやっ」
彼は首をもたげて、眼をしばたたきました。
このとき、ぼんやりとしたあたりの景色が目に映りました。
――クーパーのまわりには、例の怪物がうようよとごめいていることを知ったのです。
クーパーは怪物たちの群れにかつぎ上げられていたのでした。
それと気づいても、彼にはもうもがく体力さえ残っていませんでした。
怪物たちはクーパーを肩にのせ、クイーン・メリー号の舷側を越えていきました。
そして、何もない広い空間を、ゆうゆうと向こうへ進んでいきます。
クーパーはどこへ連れて行かれるのでしょうか? 彼の運命はどうなるのでしょうか。
パイクソンやマルラは、どうしたのでしょうか。
この奇妙な怪物の正体は、一体何なのでしょうか。
空はぬぐったように晴れています。
しかし、波のうねりは相当に大きいものでした。
船体を黄色に塗ったルゾン号は、いまそのうねりを縫って、西へ西へと船脚をはやめていきます。
ルゾン号はエバン船長の指揮によってルアーブル港を出港し、ふたたび大西洋上へと乗り出したのです。
船上には、最高の珍客が乗っていました。
それは一体、だれであったろうか。
長良川博士です。
地球生物史の研究において、有数の権威者として知られる長良川博士でした。
パリ大学に滞在中だった博士は、ルゾン号からの報告にもとづき、大胆な説を唱えて広く世界の人類に警告を発していたことは、前に述べた通りです。
「――恐るべき生物が、大西洋の海底に住んでいるのだ。それをアトランタニアン、または『海底超人』と呼ぼう。この海底超人こそは、我々人類よりもはるかに高等の生物だと推定される。豪華客船クイーン・メリー号も、ついにこのアトランタニアンによって、海底深く引きずり込まれたのであろう。我々は、早くこの海底超人との意志疎通を行わねばならぬ。さもなければ、人類対海底超人の無益な争闘が起こり、ついには有史以来最大の悲劇を生むであろうことを、あえて警告したい。――」
と、博士は放送していたのです。
アトランタニアン、別名を海底超人という生物が住んでいるとの博士の推定は、読者諸君がご存じのように、まさに的中していました。
しかも、この説に反対する学者は少なくありませんでした。
はなはだしい反対論者の中には、学問の領域を越えて感情的になり、長良川博士をののしる者さえ出てきました。
英国においては、その分野の最大権威者であるサー・ロビンソン教授が、長良川博士の説を概ね支持しました。
しかし、英国の海空軍や、例のスミス警部の属している警視庁では長良川博士の説を認めず、「いま地中海にさえ海賊潜水艦が暴れているではないか。しからば大西洋にも海賊がいないと、だれが保証できるのか」と、あくまで海賊説を主張していました。
そして近い将来、実力をもってその海賊を捕獲してみせると意気込んでいたのです。
長良川博士は、そうした反対論には耳を貸さず、フランス当局と深い理解を得たうえで、ついに海底超人国探検隊の隊長となって大西洋に乗り出すことを承諾し、ルゾン号の賓客となったのです。
博士は探検隊を組織するとともに、海底に潜るためのあらゆる準備を整えました。
幸い、パリ大学の若き助教授であるドン博士が一行の副団長として加わることになり、準備の面ではたいへん大きな助けを得ました。
また、失踪したメリー号のボーイだった三千夫少年も、この探検の一員として一緒にいくことを許されました。
それで、少年はいま船上の大人気者となって、やる気満々です。
大西洋のゆったりとしたうねりは、いまルゾン号を静かになぶっています。十数時間後にやってくる大嵐のことなど、まるで知らないかのように、海は実におだやかでした。
あッ、潜望鏡だ!
「やあ、長良川博士。いよいよ現場に近づきましたよ」
と、エバン船長が横を向いて言いました。
「なるほど。いま、まさにそのあたりにさしかかっているのですね」
博士は長いひげを指先でつまみながら、海図をじっとのぞき込んでいます。ここは船橋です。三千夫少年は、自分の背丈よりも長い望遠鏡にぴったりとくっついて、海面を一生懸命探しています。
「おやっ、変だぞ」
少年が叫びました。
「どうした、三千夫君」
エバン船長が、真っ赤な顔をして少年のほうへ近づいてきます。
「これを見てください。潜望鏡が波間に浮いていますよ」
「なに、潜望鏡が――」
エバン船長がのぞいてみると、なるほど波間に、たしかに潜望鏡の頭が浮かんで、すーっと小さい波を立てていました。
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