はなはだうっかりしていたんだが、僕は財布を忘れてしまったらしいんだ。だから、食事はやめにしておこう」
「ああ、支払いのことなら心配いりませんよ。あとで政府から支配命令書が届いたときに払えばいいのですから」
「ああ、そうかね。それなら安心だ……」
僕はホッとして、自分のお腹をさすりました。
さて、二百メートルも続く長廊下を歩いた末に、ようやく大食堂にたどり着きました。案内されるままに一つの食卓につきましたが、その料理の豪華さに僕は目を奪われました。
「お客さん、料理が来ましたよ」
タクマ少年の声に、僕は食卓へ目を移しましたが、その瞬間、僕はあまりの意外さに目をみはらねばなりませんでした。
――見えざる診察者――
「おや、タクマ君。君の料理は随分と量が少ないじゃないか。それに僕の皿に盛ってある料理に比べると、ずいぶん見劣りがするね。ははあ、君は注文するときにわざと遠慮したんだな」
僕はそう言って、食卓越しにタクマ少年の顔をのぞき込みました。タクマはそれを聞くと、にやにやと笑い出しました。
「お客さん、僕は遠慮なんてしていませんよ。だって、ここは僕の姉が経営している料理店『ヒマワリ軒』なんですから」
「でも君、僕ばかりがこんなすばらしいごちそうを食べるなんて、気が引けるよ。君はきっと遠慮しているんだろう」
「そうじゃないんですよ、お客さん。そんな大きな声を出して他の人に聞かれたら笑われますよ。だって、食事に何を食べるかということは、自分勝手に決めることができないんですもの」
「なんだって? 料理店で食事をするのに、自分の好みの料理を注文できないと君は言うのかね」
そんなバカな話があってたまるものか。僕はタクマ少年の言葉を信じることができませんでした。
「そうですとも」タクマ少年は自信たっぷりに言いました。「私たちの現在の健康状態に最も適した料理が選ばれるのです。それは保健省の仕事なんですよ」
「何を言っているのか、さっぱりわからないね」
「わかりませんか? いいですか、私たちの健康状態は人それぞれ違いますよね。脳が他人よりひどく疲れている人もいれば、心臓が弱っている人もいる。だから、脳が疲れている人にはその疲労を急速に治す料理を食べさせることが必要ですし、心臓が弱っている時には、それを強くする力のある食物をすぐに食べさせなくてはならないのです」
「ふん、それはわかるが、そんなら薬を飲めばいいじゃないか」
僕はそうするのが当然だと思っているし、いつもそうしてきたので、そう言いました。
「いやいや、薬を飲んで健康の失調を治すなんて、昔流行した不自然で損なやり方です。あの妙ちきりんで嫌な味がする薬を飲む不愉快さを考えてみてください。あれは人間がすることじゃありませんね」ですから近世においては、食物によって健康の乱れを治すのです。つまり、健康な状態に戻すために、一番ぴったりな料理を食べる。その人の健康を治すための料理だから、体によく合うのです。だからそれを食べると、どんな他の料理を食べるよりもずっとおいしく感じます。一挙両得とはまさにこのことです。健康の乱れは治るし、口にも最高においしい。両得だとは思いませんか?」
タクマ少年の言うことは、なるほど理にかなっています。誰だって、薬を飲むよりはおいしい料理を食べる方を好むでしょう。魚が食べたくて仕方がないときは、魚肉に含まれるタンパク質やビタミンAやDが体に不足している状態ですし、昆布が食べたくて仕方がないときは、体にヨウ素分が必要な場合なのでしょう。
「しかしねえ、タクマ君。僕らが今どのような健康状態にあるかを知りもしないくせに、こうして特別料理を僕らにあてがうのは、デタラメすぎるではないか」
「いや、そんなことはありません。私たちはこの食堂に入る前に、ちゃんと健康状態を調べられたんですから、間違った料理を食べさせられることはないのですよ」
「あんなことを言って、一体いつ僕らの健康状態が調べられたというんだい。そんな診察なんか、ちっとも受けやしなかったじゃないか」
僕はタクマ少年のでたらめを言い負かしてやりました。
「いいえ、ちゃんと診察されましたよ」
タクマ少年のこの返事は、僕にとって意外でした。
「君はどうかしているよ。少なくとも僕は、どこにおいても診察された覚えがない」
「たしかに診察は行われました。さっき待合室で消毒されてから、この大食堂へ入るまでに、かなり長い廊下を一人ずつ歩かされましたね。あのとき、私たちは一人ずつ診察を受けていたのですよ」
「おや、そうかね。だが、誰も医者らしい人は見えなかったし、僕の胸に聴診器があてられた覚えもないが……」
「あれは廊下の両側の壁の中に電気診察器があって、それで診察するんです。ですから姿は見えませんし、その分非常に詳しい診察もできるというわけです。あんまりしゃべっていると料理がまずくなりますから、食べましょう。どうもごちそうさま」
「そうだ。とにかく食べなくてはね。大いに腹が減った」
「私に出された料理が、お客さんのよりもみすぼらしいということは、お客さんの方が私よりも健康の乱れがひどいということです。おわかりでしょう」
なるほど、たしかにその通りだ。
◇
食事が終わったあとで、かねてから会いたいと思っていたカスミ女史と初対面のあいさつを交わしました。カスミ女史はタクマ少年の姉であり、そしてこの料理店『ヒマワリ軒』の経営者でした。僕は、この海底都市において、初めて女性と話をする機会に恵まれたわけです。
女史は、年のころ二十歳と思われる、まだうら若い女性でした。非常に美しい人で、目鼻立ちがよく整っており、口元は最も魅力にあふれていましたが、そのつぶらな両眼は、どんな相手の心も見抜いてしまいそうな知的な輝きを持っていました。いや、事実カスミ女史は並外れて優れた頭脳の持ち主であり、その後、僕は女史からさまざまな指導を受け、危うい瀬戸際をいくたびも女史に助けられました。それは、いずれ書き綴っていこうと思います。
とにかく、女史と二人きりで語り合った初対面は、非常に印象的なものでした。
「ああ、本間さんでいらっしゃるのね。弟をたいへん愉快に働かせてくださるそうで、お礼を申し上げます」
「いや、どうも。僕の方こそ、タクマ君にたいへん厄介をかけていまして、恐縮です」
「そうなんですってね、あなたから少しも目が離せないと言って、弟が心配していましたわよ。当地は初めてなんですってねえ」
僕はカスミ女史からズケズケと言い当てられ、顔が熱くなるのを感じました。
「はい、初めてですから、万事まごついてばかりいます」
「一体あなたはどこからいらしたんですの」
痛い質問が、女史の赤い唇から飛び出しました。僕はドキリとしました。
「ちょっと遠方なんです」
「遠方というと、どこでしょう。金星ですか。まさか火星人ではないでしょうね」
「ま、ま、まさか……」
女史の質問に、僕はどんなに面食らったことか。これでも僕は人並みの顔をしているつもりです。それを女史は、よりによって僕を火星人ではないか、金星から来た人ではないかと疑っているのです。
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