初級翻訳・海底都市 第27話

海底都市

しかし僕のように、この世に影を投げかけることができない者は、影の増やしようがありません。
もっとも、このことも理学的に研究を進めれば、あるいはできるようになるかもしれませんが……。
僕たちは、ついに最後の砂を突き破って海底に出ました。
例の懐かしい海底風景でした。
僕はカビ博士のことを思い浮かべました。
そこで博士が貸してくれた通信機のことをも思い出して胸のあたりを探ってみると、ちゃんとそれがありました。
これ幸いと僕はその送話器を通じて、放送を試みました。
すると、応答がありました。
「了解した。
すぐそこへ迎えに行く」
そう言ってから、五分と経たないうちに、カビ博士は高速潜水艇メバル号に乗ってやって来ました。さらにその後ろには、メバル号よりもずっと大きくて立派な潜水艇が三隻も従っていました。
「ご苦労だったね。本当に心配していたんだよ」
博士は潜水服姿で現れて、そう言いました。
「ひどい目に遭いましたよ」
「そうだろうね。詳しい話はあとで聞くことにしよう……。あまりに君が戻ってこないものだから、とうとう私は政府を動かして、この潜水艇三隻の協力を取り付けることになったんだ」
博士はそう言いながら、五人のトロ族の者たちをじろりと見つめました。

新龍宮ホテル

五人の魚人たちを迎えた海底都市は、歓迎ムードで町中がひっくり返るほどのにぎわいでした。
まさか海底のさらにその下に魚人たちが住んでいたとは知らなかった人がほとんどだったので、「先住トロ族の発見とその来訪」というカビ博士の解説記事は、報道ネットワークを通じて海底都市の人々に大きな驚きと深い感動を与えました。
そして、代表のオンドリ氏やビロ氏ら五人の宿舎となった「新龍宮ホテル」の前の広場には、朝早くから夜遅くまで、たくさんの群衆が集まってワイワイと騒ぎ立てていました。一目でもいいから魚人を見たいという願いからでした。
彼らは魚人たちを見るために、いろいろな華やかな飾り付けをホテル前に持ち寄り、歓迎の音楽を演奏したり、みんなで合唱をしたりしました。

カビ博士は一躍有名人となりました。世界的な考古学者であり生物学者として称えられ、さらに海底のそのまた底まで探って魚人の代表を連れ帰ったというその勇気と辛抱強さ、そして人徳までが賞賛されました。
カビ博士は、ときどき僕と目が合うと、くすぐったそうに笑いました。
(どうも具合が悪いよ。本当は、みんな君の手柄なんだからねえ)
僕は、博士のちぢれた髭が、くすぐったい笑いのために震えるのを見るのが愉快でした。あの気難しかった博士が、今や学界からも市民からも尊敬の的となってしまい、二十四時間いつでも彼らの前へ引っ張り出されているので、難しい顔なんか五分間もしていられないのです。それは彼にとって、むずがゆい苦しさに違いありません。

僕は、このお祭り騒ぎの中では少しも表舞台に立っていません。その理由は、僕は「影のない身」であり、表には立てないからです。もし堂々と名乗りを上げれば、ただちに逮捕されて、例の海底牢獄へ放り込まれるに決まっています。僕はカビ博士の尽力によって、ようやく考古学の標本、あるいは実験動物として、この世界に滞在することを黙認されている身分なのです。
だから、この間僕が演じた冒険も外交交渉も、何もかもすべてカビ博士自身が行ったことになっています。僕は影の存在なのです。影の中にいて、賞賛の嵐にもみくちゃにされるカビ博士を、くすぐったい気持ちで隙見しているというわけでした。

本当なら、僕はこんなお祭り騒ぎの席には顔を出したくありません。しかし、そうしないわけにはいかないのです。なぜなら、オンドリをはじめとする五人の代表魚人たちは、もともと僕との交渉によって僕を信頼し、はるばるここまで足を運んだからです。だから、僕の姿が彼らのそばから少しでも消えると、彼らはひどく不安そうな顔をして僕を探し回るのでした。そういうことは、特に最初の一週間ほどはとても激しかったです。
僕はヒヤヒヤしながら、魚人たちの身の回りの世話や連絡係を務めました。僕は「影のない身」であることを海底都市の人々に知られまいとして、毎日どれほど苦労したか分かりません。僕は安全な間接照明の部屋を選んで走り回りました。そうでなければ、雑踏の中なら安全でした。そこでは影法師のことなど誰も気にしていなかったからです。

五人の代表たちが、海底都市の市長や委員たちと本格的な会談を終えるまでには、四、五日かかりました。それは彼らが海底都市での生活に慣れていないことや、いろいろな気疲れが重なったせいでした。
「いかがですか、オンドリ氏。もうすこしは空気の中の生活に慣れましたか?」
五日目に僕はそう尋ねました。市長たちが一日も早く会談を始めたがっていて、カビ博士に毎日のように催促をしていたからです。
「ああ。ようやく慣れてきたが、あまり長くここに滞在していると、病気になってしまいそうだ」
オンドリ氏は、気密兜の中からそう言いました。
彼ら五人は、いつでもこの気密兜をかぶり、気密服をすっぽりと着ていなければなりませんでした。この兜と服の中には、海水と、そして彼らの呼吸に欠かせない特別な気体が入っていたのです。彼らが体を動かすとき、兜の透明な窓の中で海水がしぶきを立てるのがよく見えました。また、この兜や服は、彼らの裸の体にかかる水圧をちょうど良い状態に保つ役割も果たしていました。これがないと、いつも高い水圧の中で生活している彼らは、空気の薄い空中ではとても生きていられず、体がたちまち風船のように膨らんでパンクしてしまうおそれがあったからです。
それに、もう一つ。彼らの異様な形をした素肌が、海底都市の人たちの目にとまって、不快に思われたり、嫌われたりするのを防ぐためにも、その服は必要だったのでした。

破局来る

オンドリ氏をはじめ、トロ族の代表者たちが、いよいよ会談を始めることを承知しました。
会議場は、市会議事堂でした。
海底都市側からは、市長をはじめ七名の最高委員たちが出席しました。
カビ博士が急いで作った翻訳機が、それぞれの胸に取り付けられました。
それはカメラほどの小型のものでしたが、性能はなかなか優秀で、相手の言葉はこの中で瞬時に翻訳されて「生理波」となり、自分の脳を直接刺激する仕組みです。
すると、相手の言葉が自分たちの言葉として聞こえる仕掛けでした。
つまり、実際には相手の言葉は音として空気中を伝わるのではなく、直接に聴覚を刺激して、音を聞いたのと同じように感じられるのです。

会談は、すらすらとは進みませんでした。
オンドリ氏を始めとするトロ族の委員たちは、会談が始まると急に激しい気性を表に出し、これまで受けてきた数々のひどい事件を並べ立てて、海底都市側の責任を問いただしたのです。
これに対して海底都市側は、まったく知らないうちに起きてしまった事故であると弁解し、今後は十分に気をつけること、またこれまでの被害については相応の見舞品を贈ることを約束しました。
しかし魚人たちの側は、それだけでは納得できないと述べ、海底都市の発展をこれ以上広げないこと、そして今始めている一切の工事を中止するようにと要求しました。

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