私はその首筋を掴んで、ベッドの下から引きずり出しました。
アザラシはキョトンとして私の顔を眺めていましたが、身震いをひとつすると、ヒゲの生えた唇を吊り上げ、牙をむき出して私を寄せ付けまいとしました。しかし、そんなことは構わず背筋をこすり合わせ、仰向けにひっくり返して腹部を調べましたが、どこにも縫い跡などありません。ただ、生温かい体温と、しっとりとした脂の感触が手のひらに伝わってきただけでした。
まぎれもなく、本物のアザラシでした。
美しいセピア色の毛の下に感じられるのは、ずっしりとした脂肪の層とアザラシ特有の骨格で、ヒレを動かすたびに関節がかすかに音を立てました。
アザラシはヒレをバタバタさせて私の手から逃れようともがいていましたが、口の奥まで見えるほど大きく口を開けて威嚇したあと、急に顔を伸ばして私の手を強く噛みました。
口の中には、牡丹(ぼたん)の花びらのような赤い舌が見えました。
土間に駆け戻ると、興奮も焦りも一気に冷めはて、途方に暮れたような気持ちで木箱の上に座り込みました。
そもそも、この騒動は土間に落ちていた花のかんざしと、柱カレンダーに巻き込まれていた女の髪の毛から始まったことでした。
けれどよく考えてみれば、そのかんざしは島の誰かが馴染みの娼婦からでも貰ってきたものかもしれないし、カレンダーの日付だって、去年のものだという証拠はどこにもありません。
一昨年のか、もっと前のかも知れなかったのです。
私は安心と疲労を同時に感じ、この島へ来て以来、はじめてぐっすりと眠りにつきました。
どれくらい眠ったかはわかりませんが、騒がしい音で目を覚まされました。
狭山が悲痛な声でアザラシの名前を呼びながら、あわただしく走り回っています。
アザラシがまた病気になったのです。
取るに足らない妄想に振り回されて狭山を眺め、勝手に嫌ったり怖がったりしていましたが、自分勝手な思い込みを捨ててみると、狭山に対する不快感は消え去っていました。この孤島に自分とこの男の二人しかいないのだという、親愛の情のようなものさえ感じるようになりました。
この数日間の友であった男の悲しみを見過ごすことはできず、自分にできることなら手伝おうと思い、上着をひっかけて狭山のいる方へと向かいました。薄暗いランプの下で、アザラシが体を長く伸ばし、背筋を波打たせるようにけいれんさせながら、吐き気を催すようなそぶりを見せていました。
毛並みには艶がなくなり、ヒゲは垂れ下がり、素人の目から見ても今にも力尽きそうな様子です。
狭山は私がそばに立っていることさえ目に入っていないようで、赤黒い頬にとめどなく涙を流しながら、「すぐおさまるからな」「元気を出してくれ」と、涙でくぐもった声で呼びかけ、口をこじ開けて水を飲ませたり、自分の手のひらを暖炉で温めては、一心不乱にアザラシの背中をさすっていました。
アザラシは苦しそうにうめきながら、首を上げて狭山の顔を見上げ、前ヒレを狭山の腕に絡ませて、悲しげに甘えていました。
すると狭山はさする手をやめ、声を上げて泣き出してしまうのでした。
断続的に激痛が襲ってくるらしく、そのたびにアザラシは弓のように背筋を反らせ、爪先から頭の先まで震わせ、そのたびに見てわかるほど弱っていきました。
狭山はどうすることもできず途方に暮れた様子で、腕の中にアザラシを抱え、子供をあやすようにただわけもなく揺らし続けていました。
吹雪と北風の音にとざされた、荒涼とした絶海の孤島で、このアザラシだけを友にして暮らしていた狭山にとっては、この時の悲しみは言葉にできないほど深いものだったのでしょう。
人と獣の垣根を超えた純粋な心の通い合いに、私も涙を流さんばかりでしたが、やがてアザラシの息はひくひくとしたものになり、ついにはしゃっくりをするようになりました。
狭山は手の中の宝物を奪われまいとする子供のように、執拗にアザラシを抱きしめていましたが、どうせ助からないなら長く苦しませたくないと思ったのか、急にきっぱりとした表情になり、腰の鞘から魚をさばく小刀を抜き出すと、鋭い刃先をアザラシの首のあたりに突き刺しました。
直視することができず、目をそらそうとしたその瞬間、狭山は小刀を投げ捨て、傷口に両手をかけると、貴婦人の手から手袋を脱がせるように、するりと皮を剥ぎ取りました。
一瞬の出来事でした。
まるで幻影が消え去るようにアザラシの姿はなくなり、たった今アザラシがいた場所に、白い若い女の肉体が横たわっていました。
すんなりと両手を伸ばし、うっすらと目を閉じています。
その顔立ちの美しさは、想像しうるどんな姿よりも勝っていました。
肌は、今降ったばかりの淡雪のように白くほのかで、生まれたてのように弱々しいものでした。
美しい体はたえず陽炎のように揺らめき、手を触れたらそのまま消えてしまいそうでした。
狭山は床にひざまずいて手を合わせ、恍惚とした眼差しで、瞬きもせずにその姿を見つめていました。
霧の間から朝日の光が差し込み、八日目の朝が訪れました。
狭山は蚕棚の端に腰をかけ、首を垂れて悲しみに沈んでいましたが、静かに立ち上がると、向かい合わせの床几(しょうぎ)に腰を下ろし、こんな話を始めました。
アグラファ(陳述されざりし部分)
それは荒木の姪で、山中はなと申しました。
年は十八で、気が利くくせに少しおどけたところもある娘でした。
十一月の半ばごろの定期船で叔父を訪ねて、敷香(しきか)からこの島へやってまいりました。
もちろんこの島で年を越すつもりなどはなく、すぐ次の船で帰るはずだったのですが、嵐で最後の定期船が来ず、いやおうなしに島にとどまることになったのであります。
例えるなら、この岩ばかりの島に突然、美しい花が咲き出したようなものでした。
荒木はともかく、私どもにはただもうまぶしくて、うかつにそばへも寄って行けないようなありさまでした。
花子はさっぱりとしていて、分け隔てをしない娘でありまして、誰に対しても同じようにからみついたり冗談を言ったり、そればかりか手まめにシャツのほころびを縫ってくれたり、髪をかき上げてくれたりするのでした。
鬼のような島の男たちも、誰もかれも皆見違えるようにきれいになって、互いに顔を見合わせてはあっけにとられるのでありました。
乱暴ばかりして手のつけられなかった荒くれ者も、花子の前へ出ると小犬のようにおとなしく、花子が格別食べたいとも言わないのに、夜なべをして釣りに出たり、華魁鴨(おいらんがも)を撃ったり、雪の下から浜菜や藜(あかざ)を掘ってきたり、ロッペンの卵を集めたりするのです。
どんな美しい大家のお嬢さまでも、この島で花子がされたほどもてはやされることはあるまい、というほどでした。
こんなふうにしてその年も暮れ、ちょうど大晦日の夜のことでした。
夕方から年越しのお酒を飲み始めましたが、最後にはみんな酔っ払って本性を現し、四方八方から花子に下品な冗談を言いかけ、近藤などは花子の手をとって寝に行こうとまで申します。
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