ヒラメだって、そのうち愛想をつかすに決まってる」
そんなことを考えながら、漁師が海辺に着くと、海は真っ黒に濁り、どろどろとしていました。そして、海の底からブクブクと沸き返り始めたかと思うと、たちまち辺りは泡だらけになりました。さらにその上を激しいつむじ風が吹き荒れるので、水面はちりぢりに引き裂かれています。
この恐ろしいありさまを見て、漁師はすっかり怯えてしまいました。それでも、なんとか浜辺に立って、こう呼びかけました。
「小人さん、小人さん、出ておくれ。
海にいるヒラメさん。
おれの女房のイルゼビルが、
おれの思うようには動いてくれないんだ」
「どうしたのですか。おかみさんは、いったい何がほしいのですか?」と、ヒラメが言いました。
「それがねえ、ヒラメさん。皇帝になりたいと言っているんだよ」と、漁師は答えました。
「お帰りなさい。おかみさんはもう、望みどおりになっていますよ」と、ヒラメが言いました。
そこで、漁師は家へ帰りました。戻ってみると、お城全体が大理石造りに変わり、真っ白な石膏の彫像が並び、金細工で飾られていました。扉の前では兵隊たちが行進し、ラッパを吹き鳴らし、大太鼓や小太鼓を打ち鳴らしています。お城の中では、男爵や伯爵や公爵が、家来として忙しく行き来していました。そして、彼らが純金でできた扉を開けてくれました。
漁師が中へ入ってみると、おかみさんは玉座に座っていました。その玉座はひとかたまりの金で作られていて、高さはたっぷり二マイルもありそうでした。おかみさんは金冠をかぶっていましたが、その高さも三エレ(二メートル)ほどあり、ダイヤモンドとルビーがぎっしりとちりばめられていました。それから、片方の手には笏(しゃく)を持ち、もう一方の手には皇帝の証である宝珠を持っていました。
そのうえ、おかみさんの両側には近衛兵が二列にずらりと並んでいました。それは、身の丈二マイルもあるような大男から、ひとりずつ順々に小さくなっていき、最後は小指ほどの小さな男までが並んでいるのです。その前には、同じ数だけの公爵や伯爵が立っていました。
漁師はその間を歩いていき、真ん中で立ち止まって言いました。
「おまえ、皇帝になったのかい」
「そうだよ、あたしは皇帝だよ」と、おかみさんは答えました。
漁師はそのまま歩みを進めて立ち止まると、おかみさんをじっくりと眺めました。しばらくそうしてから、言いました。
「なあ、おまえ。おまえが皇帝だなんて、すばらしいことだね」
「おまえさん、なんだってそんなところでつっ立ってるんだい。あたしゃ皇帝になったけど、こんどは法王にもなりたいんだよ。ヒラメのところへ行ってきておくれ」とおかみさんが言いました。
「あきれてものも言えないよ」と、漁師は言いました。「いったい、おまえがなりたくないものなんてあるのかい。法王になんかなれっこないよ。法王といったら、キリスト教の世界でたった一人しかいないんだからな。いくらヒラメだって、法王をこしらえることはできないよ」
「おまえさん、あたしゃ法王になりたいんだよ。さあ、早く行ってきておくれよ。あたしゃ、なんでもかんでも今日のうちに法王になりたいんだもの」とおかみさんが言い立てました。
「いやだよ、おまえ」と、漁師は言いました。「おれはそんなこと言うのはごめんだ。そいつはよくないぜ。あんまり欲張りすぎるもの。ヒラメにだって、おまえを法王にするなんてことはできやしないよ」
「おまえさん、何を馬鹿なことを言ってるんだい」とおかみさんが言いました。「皇帝にすることができるんなら、法王にだってできるはずさ。さっさと言ってきておくれ。あたしゃ皇帝で、おまえさんはただのあたしの夫なんだよ。すぐに行ってきてくれるかい」
こう言われると、漁師はびくびくしながら出かけていきました。けれども、体の力がすっかり抜けてしまったようです。体はガタガタと震え、膝やふくらはぎはガクガクしていました。
風が陸地の上をビュービューと吹き荒れています。雲は矢のように速く飛んでいきます。日が暮れかかって、あたりは暗くなってきました。木の葉が木からバラバラと落ちてきます。水は煮えくり返るように轟き揺れ、バシャバシャと岸辺を打っていました。遠くのほうには、いくそうもの船が見えました。船は波の上で踊ったり跳ねたりしながら、助けを求めて鉄砲を鳴らしていました。でも、空の真ん中には、ほんの少しだけ青いところが見えていました。
その周りは、ひどい嵐のときのように真っ赤に燃え上がっています。
この恐ろしい光景に、漁師はすっかりおじけづいてしまいました。おどおどしながら浜辺に立つと、こう呼びかけました。
「小人さん、小人さん、出ておくれ。
海にいるヒラメさん。
おれの女房のイルゼビルが、
おれの思うようには動いてくれないんだ」
「どうしたのですか。おかみさんは、いったい何がほしいのですか?」と、ヒラメが言いました。
「それがねえ……」と、漁師は答えました。「法王になりたいと言っているんだよ」
「お帰りなさい。おかみさんは、もう望みどおりになっていますよ」と、ヒラメが言いました。
そこで、漁師は帰っていきました。戻ってみると、今度は立派な宮殿に囲まれた、大きな教会のようなものが建っていました。漁師が人混みを押し分けていくと、中は何千もの明かりで明るく照らされていました。
おかみさんは金の衣装を身にまとい、前よりもずっと高い玉座に座っていました。そして、大きな金の冠を三つもかぶっていたのです。その周りには、坊さんたちが大勢並んでいました。
さらに両側には、ろうそくが二列に立てられていました。その中で一番大きいものは、世界で一番大きな塔くらい太くて高く、一番小さいものは台所の豆ろうそくくらいの大きさでした。皇帝や王様たちがひとり残らずそこにいて、おかみさんの前にひざまずき、その靴に接吻(せっぷん)をしていました。
「おまえ……」と、漁師はおかみさんをじろじろと眺めながら言いました。「法王になったのかい」
「そうだよ、あたしは法王だよ」と、おかみさんは言いました。
それから漁師はそばへ歩み寄り、おかみさんをじいっと見つめました。その様子は、まるで眩しいお日様を見ているかのようでした。そうして、しばらく見つめてから言いました。
「なあ、おまえ。おまえが法王だなんて、すばらしいことだね」
けれども、おかみさんはまるで木のように硬くなって、身動きひとつしません。そこで漁師は言いました。
「おまえ、もうこれでいいとしろよ。おまえは法王なんだぞ。もうこれ以上のものにはなれやしない」
「まあ、よく考えてみるよ」と、おかみさんは言いました。
こうして、二人はベッドに入りました。けれども、おかみさんはまだ満足していませんでした。おかみさんは欲の皮が突っ張って、どうしても眠ることができません。今度は何になってやろうかと、そんなことばかり考えていたのです。
漁師のほうは、すぐにぐっすりと眠り込んでしまいました。無理もありません。一日中駆けずり回っていたのですからね。
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