初級翻訳・父を売る子 第5話

父を売る子

脳溢血で、五十三歳の父親は突然亡くなった。「父を売る子」は当然として、この中途半端な小説すらも書き続ける気力は、彼のなかからすっかり消え失せてしまった。
「父親のことは、もう書けそうにない。」
彼はそう思った。
「なんだか張り合いがないよ。」
「最近、君は仕事サボり気味じゃないか? すっかり人に会いに行かなくなったね。」
新しく雑誌の仕事に関わり始めた彼に、友達がそう言った。
「なんだか気後れしちゃうんだよね。」
「ハッハッハ! なるほどね、最近は酔っぱらっても唱歌を歌わなくなったと思ったよ。」
「うむ、言われてみれば確かにそうだな。」
「一人で静かに酔いなよ、夜の間はね。それが一番、君がファージャー(お父さん)の冥福を祈ることになるさ。」
親切な友達は彼にそう言ってくれた。
彼は、慌てて手をブンブンと振った。
「いやいや、勘弁してくれよ! もう二三日も経てば、きっと元気を出すからさ。俺なんて、本当にしょうもない男だよ」
「じゃあ、父親をテーマにした小説はもうおしまいかい?」
「うむ、おしまいさ。」
彼はもっとらしい顔をして眉をひそめ、うなずいた。
そこで彼は、まだ題名が決まっていなかったほうの小説に、「父を売る子」というタイトルを奪ってくっつけることにしたのだ。
もうすぐ父親の四十九日の法要がやってくる。
彼はまたあの嫌な親族たちに会うことを想像するとうんざりしたが、今回は自分が急に一家の主(あるじ)になったのだから、ひとつ盛大に威厳を見せつけてやろうなどと考え、その日に言ってやるセリフのアイデアや、堂々とした態度のシミュレーションを今から夢想しているのだった。
(昭和十三年四月)

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