初級翻訳・石ころ路 第8話

田畑 修一郎

しかも、いかにも嫌々といった様子で、めんどくさそうにするのです。
もっとも、この「そうです」は彼の口癖みたいなもので、彼が何かといえば歌う歌、『恋し、恋し銀座の柳』という歌の後ろにも、「そうです。ええ、そうです」と必ず付け足すのでした。
それにしても、どうして彼はあんなにも暗い顔をしているのでしょうか。
彼には、普通の人たちと同じように感じたり喜んだりする能力があるのでしょうか。
もしないのだとしたら、いったいどうしてあんな表情をするのでしょうか。
まるで、世の中の灰色ばかりを見つめているような目。
彼のその重たくて沈んだ顔に、ほんの少しでも動きが出るのは、食べ物を見たときだけでした。
彼は、それが何であれ、とにかく食べ物さえあれば、チラッと一目見ただけで、まるでびっくりしたようにピョンと立ち上がるのです。
その、普段はまとまりのないボーッとした表情の中に、なぜかまっすぐな執念のようなものがパッと現れてくるのでした。
そして、ソワソワと落ち着きなく行ったり来たりし始めるのでした。彼は、食べ物をくれるお家の奥さんのことには絶対に逆らいません。
まるで小さな子供のように、何度でも欲しがるのです。
かと思うと、一度きれいにして使い終わったお椀や箸を洗い場に持っていったはずなのに、またのこのことそれを持ったまま台所に引き返してきたりします。
「あら、さっき食べたばかりでしょ!
一体なんの格好なの、それ」
と、奥さんが呆れて叱りつけながらもクスッと笑い出すと、
彼はまた、得意のふらふらとした歩き方で、ほとんど前のめりになりながらバランスを崩すようにして、食器を持ったまますごすごと引き下がっていくのでした。

そんな彼には、もう一人「苦手な人」がいました。
それは民(たみ)さんです。
民さんは夜になると昌さんをお風呂に入れてあげたり、どうしても働きたがらない昌さんを叱って牧場へ連れていったりするのですが、昌さんはいつの間にかこっそり抜け出して戻ってきてしまうのでした。
その民さんは、昌さんとはちがって、僕を見かけると人なつっこく近づいてきて、その小さな目をなんだかトローンと溶かすようにして笑いながら、ちょっとによだれを吸い込むような仕草を交えつつ、色々な話を話しかけてくるのでした。
夜になると、母屋の方へ遠慮しながらも、僕の部屋にやってきて話をしてくれるのです。

民さんの話や、お家の方から聞いた話をあわせてみると、民さんは日本橋の大きなお店の生まれで、あの有名な暁星(ぎょうせい)中学校の3年生まで通っていたそうです。
でも、その頃から頭の調子が悪くなってしまい、「滝の川学園」というところに預けられたのだとか。
滝の川学園というのがどんなところか当時は知りませんでしたが、どうやらお金持ちの家で頭の少し不自由な子どもたちを教育する施設のようでした。
民さんは、その頃の仲間だった有名人の子供の名前を2、3人ほど口にすることもありました。
実家はすっかり没落してしまい、今では妹の嫁ぎ先である池袋の果物屋さんだけが頼りだということです。
「一度そこへ帰ったんですけど、またここに連れてこられちゃいましたよ。
妹の家ではね、妹のことを『おかみさん』って呼ばなきゃいけないんです。
ぼくが頭が悪いもんだからね、都合が悪いって言ってね。
ぼくはいつも叱られてばかりいましたよ」
民さんは、例のトローンと溶けるような笑い声を浮かべながらそう言うのでした。

あるとき、民さんはその妹の家へ宛てた手紙を書いてほしいと僕に頼んできました。
母屋の人たちに聞こえないように、コソコソと小さな声で言うのです。
「手紙をちっともくれないから、時々送ってくれってさ。
去年バターを送ったけど、それはちゃんと届いたかい?
だんだん温かくなったから、薄手のシャツを3枚送ってほしい。
それから、チョコレートとなにかお菓子を送っておくれよ」
そう言いながら、
「板チョコは、とっても美味しいですからねぇ」
と、頭が丸くハゲた民さんは、僕の顔を見ながらゴクリとツバを飲み込んでみせるのでした。

そんな民さんでしたが、毎日の仕事はきちんとこなしていました。
もっとも、牛を山へ追い上げてしまえば、牛はその辺りの草を自由に食べているだけなので、民さんは大抵の日中を山でゴロゴロと寝て過ごしていたそうですが。
ただ、お酒が大好きで、一杯でも口にしようものなら、必ず脱線してしまうのが玉にキズでした。
2、3日経っても帰ってこないこともししょっちゅうです。
僕が滞在している間にも、大きな「芭蕉イカ(アカイカの一種)」が獲れたことがありました。民さんはそれを持って、夜になってから集落にあるこの家の親戚のところへお使いに出かけたのですが、なんと翌日の午後になっても手ぶらでフラリと帰ってきたのです。
途中で同じ牧夫仲間の太郎という男に出くわし、そのままつるんで遊んでしまい、お土産のイカを水で洗うことすらせずにそのまま引き裂いておつまみにして食べてしまったうえに、あちこちの農家を夜中に叩き起こしてお酒をねだり、山の中で寝てから帰ってきたというのです。
そのせいで翌日は一日中「お腹が痛い、お腹が痛い」と言って寝込んでいました。
「真っ暗な中で生のイカなんか食べたもんだから、口の周りがイカ墨で真っ黒になってたんだってねぇ、なあ、民さん!
お腹が痛くなったのは、きっとバチがあたったんだよ」
と、奥さんにからかわれて、民さんはすっかりしょげ返っていました。

その民さんですが、ある日ものすごく怒っていることがありました。
いったいどうしたのか、理由は分かりません。
牛小屋の方で奥さんと何か話をしていたかと思うと、いきなり、
「おれはもう帰る、ばか野郎!
こんなところで誰が一生懸命働いてやるもんか!」
と大声で叫び、あとは「ぶるん、ぶるん!」と荒々しい息を吐き出しながら、背負い枠も牛の綱もその辺りに放り投げ、その小さな肩をものすごい勢いいからませて――ちょうど僕は庭先にいたのですが――こちらには目もくれず、そのまま小屋へ引っ込んでいったのです。
奥さんはそれを見て、苦笑いをするばかりでした。

僕は最初、民さんと昌さんは大の仲良しなんだとばかり思っていたのですが、日数が経つにつれて、どうやらそうではないことが分かってきました。
ときどき、夜になってあたりがすっかり寝静まったころになると、ふいに庭の向こうにある小屋から、二人が言い争う声が聞こえてくるのです。
どうやら民さんが力任せに昌さんをいじめているらしいのです。
ドタバタと揉み合うような物音も聞こえてきます。
そんなとき、昌さんは決まって「あーア、あーア」と、ぐっと引き延ばしたような、悲しげな声をあげるのでした。
昌さんは、何かといえば――たとえば牛の綱を持たされたりすると、よほど牛が怖いのかなんなのか――いつもこの声をあげるのです。
それは彼にとって、精一杯の抗議の手段であり、同時に自分の身を守るための防御でもあるようでした。

あるとき、僕はこの二人が放牧に出かけるのについて、一緒に山へ登ったことがあります。
そこはかなり見晴らしのいい、ずいぶん高い場所でした。
その山の上でも、二人の争いを目撃しました。

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