そうこうしているうちに戸がガラリと開き、お母さんらしい人が顔を出した様子でした。
でも、怒られるどころか、何やら楽しそうに言葉を交わしています。
「ああ、そうですか。お休みのところを起こしてしまってすみませんでしたね」と、「タイメイ」さんは妙に丁寧な言葉遣いで挨拶をし、引き返してきました。
もう宿に帰るのかと思いきや、「タイメイ」さんは僕をまた別の家へと連れていきました。
そして、その家でもやっぱり、すっかり寝静まっている家の人を外から呼び起こしたのです。
「もしもし、飴玉を三十銭ぶんほど、明日までに作っておいてください」
家の中からは、もううちでは飴を作っていないんですよ、というような返事が聞こえてきました。
「あ、そうですか」
「タイメイ」さんはまた気軽な調子で引き返してきました。
そして、
「今の家、今朝ここへ来るときに、菓子箱を背負った娘さんに会ったでしょう? あの家なんですよ」
と僕に教えてくれました。
それで、あんなふうに声をかけて家の中の様子を探ってみたんだな、と僕は納得しました。
僕は、「タイメイ」さんのあとについてのこのこ集落中を歩き回りましたが、なんだかこの「タイメイ」さんといっしょにいると、うっかりしているとこっちまで恥をかかされそうだな、と気づきました。
こんなふうに若い娘さんばかりを探して夜の村を歩き回るなんて、なんだかまるで犬みたいだな、と私は思いました。
僕は、「タイメイ」さんがまた別のどこかへ行こうとするのを「もうやめよう」と断って、さっさと一人で宿屋へと引き返しました。
そして翌朝、目を覚ますと、外は激しい雨風が吹き荒れていました。
一日中部屋の中に閉じこめられて退屈していましたが、夕方になると、一人の娘さんが「タイメイ」さんを訪ねてやってきたのでした。それは昨日の夜、ぐっすり眠っているところを起こされた農家の娘さんでした。「タイメイ」さんが東京にいた頃、やっぱり東京へ出てきてお手伝いさんをしていたらしく、話を聞いていると「タイメイ」さんにはいろいろとお世話になったみたいでした。
それから、娘さんがちょっと席を外したすきに、タイメイさんからこんな話を聞かされました。この娘さんは今、恋のことでとても悩んでいて、そのお相手というのが「神着(かみつき)」に住む、奥さんや子供がいる四十代を過ぎた、島で一番古い家柄の旦那さんなんだそうです。そのせいで、結婚して一緒になるわけにもいかないし、かといってきっぱり別れることもできなくて、どっちつかずの中途半端な状態で困っているということでした。
その相手の男の人のことは、僕も檜垣(ひがき)のところで会ったことがあったので知っていました。
「タイメイ」さんは、病気だからお酒はドクターストップなんだと言っていましたが、本当は飲みたそうにしていたので、飲んでいいよと勧めてみると、嬉しそうにグイグイ飲みました。
この晩もそうで、お酒を飲みながらとっても楽しそうにたくさんおしゃべりをしました。
娘さんはニコニコしながらお酌をしています。
「なあ、お前さ、よくよく考えてさあ、ひとつこの俺に任せてみなさいよ。
俺にちゃーんと考えがあるんだからさ、ひとつ俺に任せておくれよ」
「何を任せるっていうんですか。
別に任せるようなことなんて何もありませんよ」と、娘さんは言います。
「えへえ、そんなこと言ってさ。
まさかお前も、このままいつまでも牛のしっぽを追いかけたり、山へ芋を掘りに行ったりしてばかり暮らすわけにもいまいさ」
「私は山が好きですよ。村の中はなんだかうるさくて落ち着かないからね。
山へ行っているときが一番いいんです。
牛のしっぽを追いかけたって、そんな暮らしのどこが悪いもんか、ちっとも嫌だなんて思っていませんよ」
「まだそんな強がりを言ってさ。
そんなことばっかり言ってると、また『ネコイラズ(殺鼠剤)』を飲んじゃうぞー」
それを聞いた娘さんは、思わず声を立てて笑い出しました。
昔、東京でお手伝いさんをしていたとき、本当にお医者さんにかかる代わりにそのネコイラズを飲んじゃったことがあるんだそうです。
「どうってことないのよ、当時は死のうなんて特別な気持ちがあったわけでもないの。
ただふと変な気分になっちゃってねえ、いざ飲んでみたら味がまずくてまずくて、結局ぜんぶ吐き出しちゃったんだから」
「そうなんですよ」
と、娘さんは僕の方をパッと向いて、それからまた言いました。
「だいたいお前さんも、なんだか変わった人だよねえ」
娘さんはしばらくの間、だまりこみました。
そして、ふいに、
「ああもう、私なんだか自分の気持ちがちっともわからないや」
とつぶやきました。
そのときの娘さんの目はピカッと鋭い光を放っていて、どこか、昔ネコイラズを目の前にしたときの彼女のハッとするような姿が目に浮かぶようでした。
翌朝、出発する前に、娘さんはしぼりたての新鮮な牛乳をわざわざ僕たちのところへ持ってきてくれました。
僕と「タイメイ」さんはその日、途中の坪田村(つぼたむら)で一泊し、島をぐるりと一周してから、また神着村へと戻ってきたのでした。
それから間もなくして、僕は阿古村(あごむら)の中でも、村の中心部からさらに一里(約4キロ)ほど南西へ行った、まわりにはほとんどお家のない静かな農場へと引っ越しました。
島めぐりをしていたときに、偶然その場所を見つけて気に入っていたのです。
檜垣は、僕をどうにか神着村に引き止めておきたかったらしく、いろいろとお部屋の空き具合などを調べてくれたのですが、僕は我儘(わがまま)を言って、どうしてもと阿古村へ行ってしまいました。
理由の一つは新しい場所がすっかり気に入ったからですが、もう一つは、神着村には檜垣をはじめとして知り合いがたくさんできてしまい、自分のこの孤独な時間を誰にも邪魔されたくなかったからです。
檜垣には、本当の理由は何も言わずにそのままにしておきました。
僕自身も、自分でもうまく説明できない、誰にも言いたくないような変な心の状態にいたのです。
いろいろな人から「どうしたの?」と訊かれたり、檜垣にも心配して訊かれたりしたけれど、「眠れない病気なんだ」と言って適当に話を片づけました。
実際その通りだったし、他人に対してはそれ以外の言いようもありませんでした。
だけど、僕の心の奥底では、そんな簡単な言葉ではとてもおさまりがつかなかったのです。
病気は良くなったり悪くなったりしながら、もう二年近くも続いていました。
病気の峠はさすがに越えたようには思えたし、僕自身もそうであってほしいと願っていたけれど、実際のところは自分でもよくわかりませんでした。
嫌で嫌でたまらない、気味の悪い「何か」がいるのです。
あるときは人間の顔の形をして現れることもあるし、またあるときは千人くらいの人間を一つにまとめあげたような、とても形にはできない途方もなく巨大な顔のときもあります。
何が一番僕を苦しめたかというと、これまで僕がずっと親しく見慣れてきて、はっきりと分かっていたはずの物や事のすべてが、なんだか確実でなくなってしまい、輪郭がぼやけてしまったことでした。
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