初級翻訳・良寛物語 手毬と鉢の子 第30話

新美 南吉

春には花が咲き、秋には紅葉がわしの眼を楽しませてくれる。何というありがたいことだ。何一つ世の中のためにできなかった、わしのようなものには、本当にもったいないくらいだ。だから、わしはこれ以上何も望まない。何でもありがたいと思って生きている。」
「いや、よく分かりました。兄さんがご自分で満足していらっしゃるなら結構です。」
それから三十分ばかり、由之さんは世間話をしていましたが、
「じゃあ、また来ます。兄さんも陽気がいいときですから、ときどき出雲崎まで出掛けておいでください。」
と言って立ち去りました。
馬の蹄の音が聞こえなくなってしまってから、良寛さんは思いました。
――由之は一体、何をしに来たのか。
その由之さんも馬の背に揺られて、国上山(くがみやま)を降りながら思いました。
――わしは一体、何をしに来たのか。
由之さんは、この頃面白くない日が続いていました。町民たちが彼と息子の馬之助を嫌って、言うことに反対ばかりしたからです。そして税金はなかなか集まりませんでした。そればかりか町民たちは、由之さんと馬之助が不当な税金を取ったと言って、代官に訴えたりしたのです。そこで由之さんは、家にいても気がくしゃくしゃするので、一つ兄の良寛さんに一切を打ち明けて、ここをうまく切り開いていく方法はないか尋ねようと思って、良寛さんを訪ねて来たのでした。
――しかし、タケノコを伸ばしてやるために縁側や軒端に穴をあけるような兄さんに相談したって何になるものか。まだそこにつないである牛に相談した方がいいくらいだ。
この考えに可笑しくなって、由之さんは一人で笑いました。
平野に出ると由之さんは、馬をしばらく走らせました。やがて馬の速さを緩めながら、
――待てよ、と思いました。
――兄さんのような生活、あれが人間の本当の生活なのかもしれない。欲を出さないで、天から下さるものだけを頂いて、それで満足している。木や小鳥や陽の光を楽しんで……。
よく考えてみると、由之さんの今の苦しみも、欲が深すぎるところから始まっていました。町民たちからたくさん税金を取り立てた。この馬もその金で買った。その金で息子の馬之助と物見遊山にも行った。まだしたいことや欲しいものは一杯ある。これでは、いくら町民から税金を取り立てても、きりがない。
――こいつは確かに、私のやり方が間違っていた。やっぱり兄さんは、私に教えてくれた。そうだ、やっぱり兄さんは偉い。
由之さんは顔を明るくして、あたりを眺めました。急に世の中が、美しくなったように見えました。

十四 手毬

お米がなくなると、良寛さんは山を降りて托鉢(たくはつ)をします。家々の門先に立って、短いお経を唱えて、一つまみずつのお米や麦を鉢の子の中へもらうのです。
托鉢には、どんないでたちで出掛けたか。良寛さんもこの頃では年をとって忘れっぽくなったので、忘れないように持ち物を紙切れに記しておきました。それには、おおよそこう書いてありました。
頭巾(ずきん)、手拭い、扇子、手毬、おはじき、
笠、脚絆(きゃはん)、手甲(てこう)、杖、絡子(らくす)、
桐油(とうゆ)、鉢、袋、
庵を出るとき、これをよく読まないと、先できっと不自由するなり。
こんなふうに書きつけてあっても、これらの物をみんな身につけて出掛けはしませんでした。天気のよい日、近いところを回るには、鉢と袋があればそれでよいのです。しかし良寛さんは、どんなときでも手毬とおはじきは、ちゃんと持って外へ出ました。托鉢の途中や、それが済んでから、子供たちと一緒に遊ぶためです。
良寛さんは近くの村々を、今日は西、明日は東というふうに托鉢して歩きました。そして到るところで、村の子供たちと仲良しになりました。それから、軒端や木の枝の雀とも仲良しになりました。子供たちは良寛さんを見ると歓迎するのですが、その仕方が村々によって同じではありませんでした。ある村の子供たちは口が悪くて、
「やあ、坊主が来たぞ。乞食坊主が来たぞ!」
と言って、はやしたてたのでした。それでも心まで汚れてはいなかったので、カヤの実を一つ、あるいは落花生を二つ、良寛さんの鉢の中へ入れてくれるのでした。
またある村の子供たちは、良寛さんを見つけるとみんなで手をつなぎ合い、道をふさいで通せんぼをするのでした。
また別の村の子供たちは、良寛さんの持ち物をやたらに珍しがって、杖を借りてついてみたり、笠を借りてかぶってみたり、鉢を借りて転がしてみたりするのでした。
良寛さんがときどき訪ねていく地蔵堂町の子供たちも、また特別な歓迎の仕方を持っていました。
そこの子供たちは、良寛さんを見るやいなや、いちはやく、
「良寛さん、一貫!」
と叫びます。
すると良寛さんは、びっくりしたような格好で、後ろへそっくり返るのです。
以前からの約束で、そうしなければならないのでした。
今度は子供たちが、
「良寛さん、二貫!」
と叫びます。
すると良寛さんは、先ほどよりも一層激しく後ろへ、そっくり返るのです。
こうして子供たちは、だんだんと貫数を増やしていきます。
それにつれて良寛さんは、ちょうど背中の荷物の重さが一貫目ずつ増えていくかのように、どんどん深く、そっくり返っていきます。
そして子供たちは最後にこう言います。
「良寛さん、十貫!」
良寛さんは、もうこれ以上深くはできないというところまで、そっくり返ります。
つまり、地面に仰向けに倒れてしまうのです。
それから子供たちと一緒に、良寛さんの好きな手毬やおはじきで遊ぶのがお決まりのコースでした。
今日も良寛さんは、地蔵堂町へやって来ました。
ところが、子供たちがよく遊んでいる辻堂の見える角まで来たとき、良寛さんは自分がうっかりしていたことに気づきました。
「ほい、こいつはしまった。今日はここへ来るんじゃなかった。」
というのも、良寛さんは今日、新調したお衣を着ていたのです。
前の衣はもう十年ばかりも着てボロボロになってしまったので、良寛さんと親しい阿部造酒右衛門(あべさけえもん)という人が、今度新しく衣を作ってくれたのでした。
それは歩くたびに軽く爽やかな音を立てる、立派な衣でした。
「悪いことに、雨上がりと来ている。」
良寛さんは地面を見ました。どこもかしこも少しぬかるんでいました。
「ここへひっくり返ったりしたら、衣が台無しになってしまうだろう。」
しかし良寛さんは、今さら引き返すこともできませんでした。
というのも、もう一つ新調したものが良寛さんの懐(ふところ)に入っていたからです。
手毬です。
昨日、良寛さんは暇だったので、五合庵(ごごうあん)で手毬を作っていたのです。
たかが手毬といっても材料がなくては作れないので、何も持たない良寛さんは、それを人から頂かなければなりませんでした。
そこで良寛さんは手紙を書いて、ちょうど柴を刈って麓(ふもと)へ下りていく百姓に持っていってもらいました。
手紙は阿部造酒右衛門さんの宅に届きました。造酒右衛門さんが開いて見ると、
「昨日は新しいお衣をありがたく頂戴しました。このたびもう一つお願いしたいことがあります。針一本と、白い木綿糸をたくさんに、黄、青、赤の糸を少しずつお届けください。早々にお届けください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました