悪人は――悪徳自体は常にくだらぬものではあるが、悪徳の性格の一つには孤独という必然の性格があり、他をたより得ず、あらゆる物に見すてられ見放され自分だけを見つめなければならないという崖があるのだ。
善人なおも往生を遂ぐいわんや悪人をや、とはこの崖であり、この崖は神に通じる道ではあるが、しかし、星の数ほどある悪人の中の何人だけが神に通じ得たか、それは私は知らないが、そして、また、私自身神サマになろうなどと夢にも考えていないけれども、孤独の性格の故に私は悪人を愛しており、また、私自身が悪人でもあるのである。
けれどもそれは孤独の性格の故であり、悪人の悪自体を正気で愛し得るものではない。
文学とは人間の如何に生くべきかという孤独の曠野の遍歴の果実であり、この崖に立つ悪の華だが、悪自体ではない。
私は悪人だから、悪事が嫌だ。
悪い自分が嫌で嫌でたまらないのだ。
生身の私が嫌いで不潔で汚くてけがらはしくて泣きたいのだ。
私はできるなら自分をズタズタに引き裂いてやりたい。
そしてもし縫い直せるものならすこしでもましなように縫い直したい。
私は自分を引きさいて少しでもましなものに縫い直そうと小説を書くのだけれども、私の本性までケチであり、職人の腕がだめだから、厭らしい浅ましい姿だけしか書けなくて私はいつも絶望の一足手前でふみとどまっているだけだ。
私は生身の自分が嫌いだから、生身の他人、悪人も嫌いだ。
「ひとりごと」のようなものは、私は人に見せないで、隠しておきたいと思う。
私だったら、とみゑさんの遺言通り焼きすてる。
「ひとりごと」だの「薔薇は生きてる」などを愛読する人はきっと「善人」なのだと私は思う。
自分を厭がったことががなく、汚らしがったことがなく、人まかせにのんびり暮しているから、悪人の悪相が汚らしくも厭でもなく、面白かったり、珍しかったり、うがっていたり、たのしいのだろう。
だが、こんなものは本当の文学ではない。
ただの薄汚い泡、てんかんの泡みたいなものだと私は思っているだけだ。
初級翻訳・蟹の泡 第2話
坂口 安吾
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