初級翻訳・青い風 第3話

徳田 秋声

「もうどうしたって、あれは止まらないようだな」

「収ちゃんは、前から僕ら兄弟と一緒にいられないんだもの」足の悪い子供も言いました。

「悪いなら悪いなりに、また味方もできるものだけれど、収ちゃんは友人の好意なんか裏切って平気なんだもの。親しそうに見えて、誰も収ちゃんのことは分からない。友達に何も話さないからね」

「それに、あの男は己と一緒にいるのがどんなに気詰まりか。あれがいけないんだ」

結局、彼は一室だけ封鎖することにしました。そしてその翌日、錠を買いに行くものは買いに行き、しまい込んでおく衣類などを選び出すものは選び出し、運ぶものは運び、戸に錠前を打ち付けるものは打ち付けました。別にまた運送屋が来て、海岸へ持っていく夜具などの荷造りを始めていました。時間がまだあるので、みんなは椅子の部屋に集まりました。足の悪い子は、そのひょろ長い体に新調の洋服を着込んで、杖にすがってあっちこっち歩いていました。彼は一昨日、病院で膿を取ってもらったばかりでした。汽車の中では、京子が一人でぴちぴちと元気にしていました。足の悪い子は、一番後ろのクッションにもたれて、細長い首を伸ばして、二年ぶりに見ることができた広い野の緑を貪るように眺めていました。やがて、兄をいたわるようにして一つのクッションに腰かけていた京子が、父と姉のそばへやってきました。
京子が春代の膝の上に、すごろくの盤を広げました。
「去年は、僕が一番先にここを歩いたんだって、三郎が僕の肩につかまってプラットホームを歩いているときに言っていたけれど……」
彼は先ほど、発車前の窓の下に立っていた長男から聞いた言葉を思い出すと同時に、子供たちだけで過ごした一昨年と昨年の、二夏にわたるわびしい海岸での生活を想像していました。
ある夏は子供好きな青年を一人つけて、またある夏は全く子供たちだけで過ごしたのです。
汽車の窓から見える景色は、どれも子供たちにとっては見慣れた風景でした。
彼らは懐かしそうに、その日の思い出を語り合っていました。
しばらく続いたすごろく遊びも飽きて、やがてボール紙製の盤は畳まれました。
「何もお菓子を持ってこなかったね」
彼は久しぶりの子供たちとの旅なのに、食べるものを用意していなかったことを少し寂しく思いました。
「ええ……」
今まで妹につられてすごろくで少しはしゃいでいた春代は、申し訳なさそうな顔をしました。
「お父さん、ありますよ」
四男が笑いながら網棚の上を見上げました。昨日から籠に残っていたサンマーオレンジが三つ四つと、メロンが一つ、紙包みのまま置かれていました。
「今日がちょうど、そのメロンの食べ頃なんですよ。だから僕、持ってきたんだ」
足の悪い子が、後ろから言いました。
まずはサンマーオレンジが取り下ろされました。
「海! 海!」
しばらくすると、京子が叫んで反対側の窓へ飛びついて行きました。
汽車の鈍いこの四時間の旅も、彼や子供たちにとって退屈なものではありませんでした。そして、彼はすぐにNという町へ着きました。
「これはいい。素敵だ」
妹と弟に助けられて部屋へ上がった足の不自由な子供は、広い縁側に杖をついて立ったまま、青々とした髪のように風にそよいでいる田んぼや松林の向こうに見える緑紫色の山、そしてその上にたなびいている青空の白い雲を見渡しながら、嬉しそうに叫びました。
「ここならお前も、そんなに退屈しないだろう」
「ここにいれば、僕は海へ行かなくてもいいです」
そして彼は荷物が届くまでの間、旅館から借りてきた椅子に腰かけて、汽車の旅の疲れを休めていました。
「さあ、メロンを食べよう。少し冷やしてからね」

東京へ帰った彼は、ある晩、ある青年と外で晩ご飯を食べて、銀座へと繰り出しました。
銀座には、熱い黄色い風が吹いていました。
白い顔の男や、まるでマネキンのように洋服を着こなした女たちが、相変わらずぞろぞろと歩いていました。
彼は三日ほど子供と一緒に海へ行きました。
そこの海岸でも、もう「ケーブ(洞窟)」という言葉は古い型になりかけていました。
大きな傘を持ち出している人もいました。
震災で丸潰れになった町は貧乏でしたが、海岸だけは赤や緑のゴム帽子で賑わっていました。
十年前よりも十倍もの都会の人が押し寄せ、遠浅の海をバシャバシャとかき混ぜて濁らせていました。
それでも、この沿岸では、ここは比較的落ち着きのある海水浴場でした。
明治屋の支店もまだここには出ていませんでした。
コーヒーらしいコーヒーを一杯飲ませるような店もありませんでした。
さして身分を鼻にかけるような人の姿も見えませんでした。
日焼けで赤く染まりかけていた彼の痩せた肩や腕も、四、五日水道の水を使っているうちに、また色が褪せかけてきました。
彼は入れ替わりに食料品やカルム(菓子)を託して、長男を海岸へやりました。
彼はその青年から、農村や都会の労働者の話を聞きながら歩いていました。
彼は大人の話し相手に飢えていたのです。
帰ってくると、家はひっそりとしていました。
彼は京子と約束した通り、一両日中にはまた海岸へ行くつもりでしたが、帰れば帰ったで、つい用事に絡めとられてしまいました。
「京橋からお電話でした」
女中は締め切った廊下のガラス戸を開けながら告げました。
「そうか、何だって……?」
「若旦那からお電話で、先生にちょっと電話口まで出ていただきたいと仰るんです。仕事の都合もあるから、無理に来なくてもいいけれど、お小遣いがすっかり無くなってしまったそうです」
「そうかな」
彼は決まり悪そうに、「そうかもしれないね」と言いました。
「お帰りになったら、京橋のお家へちょっとお電話をかけてください、という伝言でした」
「そうか、じゃあちょっとかけてみるかな」
彼は外へ出て行きました。
「……なんだか島流しに遭ったみたいだって、ひどく心細そうな声でしたわ。それに小さい人たちだけでは海では寂しいし、三郎さんを一人残して行くのはかわいそうだし、一体兄弟の人数が、こうなってみると不足だなんて……」
電話に出たF子は、せき込んだ調子で言いました。
「そうか。だって一切通い(食事の仕出し)で取ることにしてあるんだがね。お小遣いも春代に預けてきたんだけれど」
「そうですか。でもなんだか、助け船がほしいような声でしたよ」
「子供の相手が退屈だからだよ。しかし、明日は行こう」翌日の夜、彼は途中のデパートで、かき集めるようにして買い込んだ食料品や菓子を持って、海岸の家へ戻りました。
 前回帰る時には、春代姉妹が動き出した汽車に乗る彼に向かって「早く来てね!」と叫びながらいつまでもハンカチを振っていましたが、今回は長男と四男が迎えに来ていました。
 長男の顔は、まるで焦げたお煎餅のように真っ黒になっていました。
「どうしたんだい、その顔は」
「せっかく海に来たんだから、海に入る以外にすることなんてないですから」長男は少しやけっぱち気味に答えました。
「それにしても、そんなに真っ黒になることもないだろう」
「冗談でしょう。周りには僕よりもっと焦げている人がたくさんいますよ」
 自動車の中で、そんな話をしました。

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