初級翻訳・魔王物語 第1話

田中 貢太郎

一

日本には怪談がたくさんありますが、その多くは仏教の教えに基づいた「因果応報」の物語か、さもなければ狐や狸が化かすような妖怪話ばかりで、独立した悪魔が登場するような物語はあまり見かけません。
そんな中で、備後国(びんごのくに)に伝わる「魔王」の物語は、少し変わった雰囲気を持っています。さっそく紹介してみることにしましょう。

それは寛延(かんえん)という時代のことであったようです。
備後国三次郡(みよしぐん)布努村(ふぬむら)に、稲生平太郎(いのうへいたろう)という一人の少年武士が住んでいました。
彼には、自分が生まれる前から養子として迎えられ、稲生家を継ぐことになっていた新八郎という義理の兄と、勝弥という幼い弟がいました。しかし、兄の新八郎は体が弱かったため、弟とともに実家の中山源七の家へ引き取られており、平太郎の家には僕(しもべ)が一人住んでいるだけでした。
当時、平太郎は十六歳。藩の武芸師範である吉田次郎のもとで三年間修行を積み、立派な腕前を持っていたことから、近所の人々には「稲生の小天狗」と呼ばれていました。

それは、五月雨(さみだれ)が降る時期のことでした。うっとうしい雨が毎日降り続いています。
ある日、平太郎は雨の止み間を見計らって隣の家へ遊びに行きました。
隣の主人は権八(ごんぱち)という男で、もとは三の井という力士でした。紀州家のお抱え力士として大関まで務めたこともありましたが、その頃は故郷に隠居して、村の若者たちに相撲を教えていました。
年齢はずいぶん離れていましたが、平太郎と権八はとても気が合いました。

二人は分け隔てなくいろいろな話をしましたが、ふと権八が「大熊山(おおくまやま)」の妖怪について口を開きました。
大熊山は三次郡の西にある、切り立った岩がそびえる山です。そこを五十丁ほど登ったところに「千畳敷」と呼ばれる場所があり、昔、三次若狭守(みよしわかさのかみ)の館があった場所だと言い伝えられていました。
さらに二十丁ほど進むと、「三次殿の塚」という五輪の塔が立っており、その後ろには「天狗杉」と呼ばれる、七尋(ひろ)や八尋もあるような巨大な杉の木が、塚を覆うように枝を広げていたのです。

「どうだ、ひとつその妖怪に会ってみたいとは思わないか」
権八が言うと、平太郎も好奇心で目を輝かせました。
「そうだな、ぜひ会ってみたい」
「それじゃあ、二人でくじ引きをして、当たったほうが三次殿の塚のあたりまで行ってみようじゃないか」
「いいとも。いつ行くんだ?」
「今夜の亥の刻(いのごく・午後十時頃)がいいだろう。すぐに出発できるように準備をしておいて、それからくじを引いて、当たったほうが出かけることにしよう」

すでに夕方になっていました。
平太郎は一度家に帰り、夕飯を食べました。いつ出発してもいいように蓑(みの)と笠を用意して、時刻を計りながら再び権八の家へ行くと、権八もすでに準備万端で待っていました。
二人は紙縒(こより)を作ってくじ引きをしましたが、結果は平太郎に当たりました。

真っ暗な中、雨がしとしとと降っています。
平太郎は蓑をまとい、笠をかぶり、草鞋(わらじ)を履いて大熊山の方へ向かいましたが、まるで目隠しをされたかのように何も見えません。
田んぼの中に足を踏み入れたり、茨(いばら)に足をとられたりして、なかなか道が進みません。これには平太郎も困り果てましたが、一度引き返せば臆病者だと思われてしまいます。彼は手探りで道を探しながら進みました。

やがて大熊山の麓にたどり着き、険しい石だらけの山道を登り始めましたが、その苦労は田んぼの比ではありませんでした。しかし、「いつどこで妖怪に出会うかもしれない」という緊張感からか、平太郎はそれほど苦痛を感じませんでした。彼はできるだけ心を落ち着かせ、悠然と山を登っていきました。

石の道がなだらかになり、平坦な場所に出ました。
「いよいよ千畳敷だ。ここらで妖怪が出るかもしれない」
そう思いながらそこを通り越し、また同じような山道を登っていくと、石塔のようなものにぶつかりました。
「……三次殿の塚だな」
彼は塔の周りを撫でて確かめてみました。間違いなく五輪の塔です。
塚の背後に「天狗杉」があることを思い出した彼は、塚を斜めに避けて裏側へ回り、手を広げて探ってみました。すると、指先に冷たい大きな木の幹が触れました。
「間違いなく天狗杉だ」
そう確信した平太郎は、そのまま木の根元に腰を下ろしました。

小さな雨がぼそぼそと降っています。
彼は闇の中を静かに見回しながら、小一時間ほど黙って座っていました。しかし、木の葉を揺らす風の「さ、さ、さ」という音を聞くばかりで、不思議なことは何も起きません。
「もう帰ろうかな」
そう思いましたが、このまま帰ってはここに来た証拠がありません。彼は足元の草をむしり取って塔のところへ探り寄り、それを塔の一番上の擬宝珠(ぎぼし)に結びつけました。それから草鞋の紐を締め直し、山を降り始めました。

千畳敷の平らな場所まで降りてきた時、ふと怪しい影とすれ違いました。
明らかに何かの胴体です。
平太郎はハッとして、いきなり刀を抜いて切りつけました。
刀は金属のようなものに「カチリ」と受け止められました。
平太郎はもう一度刀を振るいましたが、それもまた防がれました。刀の切っ先から火花が散ります。

「平太郎殿、権八だ!」
聞き慣れた親しい声が聞こえました。
平太郎は刀を引き、しかし油断はせずに尋ねました。
「貴殿を送り出した後で、なんだか心配になってな。様子を見に来たんだ」

平太郎と権八は刀を収め、肩を並べて立ちました。平太郎の冒険も、結局のところは何一つ変わったことはありませんでした。
二人は拍子抜けして家に帰ってきました。

二

五月雨の時期も過ぎて、季節は七月の暑い夏となりました。
ある日の夕方、平太郎と権八の二人は、二筋川のあたりへ夕涼みに出かけていました。
日が沈んだばかりの川原へ出て、大きな白い石の上に腰を下ろして話し込んでいると、さっきまで大熊山の方で、もくもくと盛り上がったり崩れたりしていた鼠色の雲が、急に空一面に広がり、あっという間に夕立の気配となりました。
雷光がキラキラと目を射るように走り、雷が鳴り響き始めます。
雷鳴に続いて、銀の糸のような激しい雨が降り注いできました。
二人は驚いて、ほかの夕涼みの客たちと一緒に、雨と雷の中を走って帰りました。
二人は門の前で別れてそれぞれの家に入りましたが、まるで川の中を泳いで帰ってきたかのように、頭からびしょ濡れになっていました。
平太郎は、僕(しもべ)の六助に寝巻きを出してもらって着替えましたが、半分以上の道のりを走った疲れもあって、そのまま蚊帳の中に入って横になりました。
僕は主人の濡れた帷子(かたびら)を竿にかけてから、自分の部屋へと下がっていきました。

眠りかけていた平太郎の耳に、僕の苦しげなうめき声が聞こえてきました。
彼は起き上がって僕の部屋へ行ってみると、僕は仰向けになったまま、手足をバタバタと動かして苦しんでいました。

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