これで命も無事だったし、なにか食べ物にもありつけるだろう……」
すぐにキョロキョロと見回して、漁師が干していた小魚を見つけると、火で炙ることもせず、引き裂いて食べ始めました。
食べながら波打ち際を見ると、黒い蛮衣を着た大男が、小手をかざして熱心に地理を調べています。
「あっ、あの男だな。俺の腰に取り付いてきた蠅のような奴は」
蛾次郎は干魚をムシャムシャと噛みながらそばへ寄ってみると、裾野で見かけた呂宋兵衛だったので、二度びっくりという顔で言いました。
「お、あなたは人穴の……」
「うむ、呂宋兵衛だ。お前は鏃師(やじりし)鼻かけ卜斎(ぼくさい)の弟子だったな」
「ええ、よくご存じでございますね。仰せのとおり蛾次郎という者です。……ところで呂宋兵衛さま」
「なんじゃ」
「ここはいったい、東海道のどのあたりでしょうか」
「まったく方角違いだ。北陸道の糸魚川というところだ」
「すると、向こうに見える岬は伊豆の国とは違いますか?」
「当たり前だ。北日本の海に伊豆などあるわけがない」「あれが能登の半島、そして背後に見える山々は白馬、戸隠、妙高、赤倉。さらに、武田家と激しく争った謙信の居城、春日山もここからそう遠くない北の方角にある」
「へえ……それであなたは、ここからどこへ行くおつもりで?」
「京へ上るのだ」
「いいなあ。わたくしも一つお供に連れて行ってくれませんか」
「お前に頼みがある。蚕婆(かいこばば)と早足の燕作、それに丹羽昌仙。この三名に出会ったら、私が京都へ上っているから、あとから必ず来るようにと言い伝えてほしい」
「燕作のことは大嫌いですけれど、あとの二人なら引き受けますよ。……オヤ、アッ、大変……」
何かを見たのか、突然仰天してうろたえだした蛾次郎。さようならとも言わず、クロに飛び乗ると、スーッと空へ逃げてしまいました。
すると間もなく、スタスタとここへやってきた旅人が一人。
「や、そこに現れたのは人無村(ひとなしむら)の卜斎(ぼくさい)ではないか」
「これはこれは、呂宋兵衛(ろそべえ)さま、意外なところで……」
二人は磯の岩に腰を下ろし、裾野(すその)の戦いで別れて以来の出来事を話し合いました。しかし、卜斎は自分が上部の八風斎(はっぷうさい)から頼まれて伊那丸へ人穴城の絵図を持ち込んだことや、自分が柴田勝家の家臣であることなどは、もちろん一言も漏らしません。
「しかし卜斎。お前は裾野に住みついている鏃(やじり)鍛冶だろう。何も今回の騒動で、わざわざ逃げる必要もあるまい。いったいこれからどこへ向かうつもりだ?」
「裾野も良い場所ですが、あれほどしばしば戦があっては、とても落ち着いて金敷を叩いてはおられません。そこで越前の北ノ庄(きたのしょう)へ引っ越そうと考えているのです」
「なるほど。実はわしもこれから都へ出て、安土の秀吉公にすがり、なんとか事態を打開する糸口を見つけようと考えている。うまくいけば途中までの便船もあるのではないか?」
「さあ、わたくしも北ノ庄まで出る船がないかと随分尋ねてみましたが、どうも折り悪く、出船のついでがないそうで……」
二人が話しているのを聞いていたのか、波打ち際に揚げてあった空船の中から、ムックリと一人の船頭が起き上がりました。
「おい」
と、ぶっきらぼうに呼びかけて、
「おめえたち、上方(かみがた)の方へ行きてえなら船を出してやろうか。越前へでも若狭へでも着けてやるぜ」
「それはかたじけない。しかし、そこにあるような小舟ではどうにもなるまい」
「いや、長崎から越後の港へ南蛮呉服を積んできた親船が、この沖に停泊しているんでさ。どうせ南へ帰る便船だ、遠慮なく乗っていきな」
船頭は空船の艫(とも)を押して、砂地から海の中へ突き出しました。そして呂宋兵衛と卜斎の二人を乗せるや否や、勢いよく櫓(ろ)を漕いで沖の親船へと向かいました。まもなく、海潮が煙る彼方の沖に、長崎型の呉服船である「紅帆船(べにほせん)」らしき影が、だんだんと近くに見え始めました。
三
紅がら色の帆に、満々と風をはらんだ呉服船は今、能登の輪島と七つ島の間をピューピューと走っています。
カーン、カーン、カーン……
船楼から鐘の音が響きます。もう真夜中でしょう。風はそれほど強くありませんが、波はかなり高いようです。パッと舳先(へさき)に砕ける潮の花に、もうもうと霧が立っていきます。その霧の中に、ブランブランと人魂のように揺れている魚油の明かり。ギシリ、ギシリと鳴る帆綱の音が気味悪く響きます。
「やい、起きろッ」
ふいに木枕を蹴飛ばされて跳ね起きたのは、便乗していた卜斎と呂宋兵衛でした。ふと見ると、船の胴の間の周囲に、ギラギラと光るものが立ち並んでいます。
「何をするんだお前たちは?」
卜斎は腰の短刀をつかんで、キッと睨みつけました。
「まぬけめ、何をする者か聞かなくちゃわからねえのか。こいつを見たら少しは目が覚めるだろう」
わざと振り回して見せた光は、間違いなく槍、刀、鏃、薙刀――どれ一つ食らっても命のないものばかりです。
「ふむ、さては貴様らは海賊だな」
呂宋兵衛は、その時ものっそりと立ち上がり、魚油の明かりに照らされている二十四、五人の荒くれ男たちを睨み回しました。
「知れたことだッ」
槍の穂先が一斉に横を向き、まるで車の歯車のように中心へ向けられました。
「おとなしく素っ裸になっちまえ。体だけは、ここから輪島の磯へ流れ着くように放り込んでやる」
「待てッ。望み通りにしてやるが、貴様らの頭領はいったい何という者だ?」
「そいつを聞くと命がない掟だぞ。それでも聞きたけりゃ聞かしてやる」
「うむ、承知の上でも聞きたいものだ」
「よし、冥途の土産に知っておけ。この船の頭領は、龍巻の九郎右衛門(くろうえもん)。かつて東海の龍王と言われた、八幡船(ばはんせん)十八艘の頭領さまだ」「さあ、こう聞かせた以上は命ももらったも同然、覚悟しな」
「馬鹿を抜かすな」
「なんだとッ」
「もたもたしていると、こっちこそお前たちの持ち物はおろか、船ごと巻き上げてしまうから用心しろ」
「や、こいつが! 貴様いったい何者だ」
「富士の人穴に住む山賊だ」
「なに、山賊……」
「ああそうだ。海賊の腕が強いか、山賊の知恵が確かか、ここでいっちょ腕比べをしてもいい。それとも素直に頭領の龍巻を呼んできて詫びを入れるか」
「生意気なッ!」
突然、海賊たちが武器を振りかざした。
が――無益な問答をしている間に、呂宋兵衛(ろそべえ)は十分に幻術の準備を整えていた。
「ふッ……」
と、前後に立つ相手へ向かって二度息を吹きかけると、たちまち彼の姿は一筋の水気となって、そこにいるような、いないような状態になり、乱れ打たれる武器もむなしく風を斬るばかりとなった。
「うぬッ」
ひとりがすさまじい気合いと共に、おぼろげな影を槍で突いた。
すると、ピチリと一匹の魚が跳ねた。
目の下にある、二尺もある大きな鯔(ぼら)だ。
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