間諜でもないらしい」
「かしこまりました」
石弥が立ち上がり、一同が散らばりかけたその時です。四十九間の長廊下を、取り乱して駆けてくる人影がありました。小谷の方を先頭に、局や侍女など奥の者ばかりが、それぞれ鞘を払った薙刀を構え、雪洞(ぼんぼり)の花のように振るってやってきました。
「奥ではないか、何事じゃ」
「おお殿さま、ご油断なさいませ!」
小谷の方は薙刀を伏せて、
「今しがたまで一間のうちに祈祷の鐘を鳴らしていた伴天連が、妙な素振りでご城内の要害を探り歩いていると、小者からの知らせでございます」
と息を切らしました。
「うかつな者を召し入れるから悪い。む、しからばただ今の老婆もその片割れだな」
「おお、そこにいる修道士、引っくくって厳しく詮議なされませ!」
と言い終わるか終わらないかのうちに、小谷の方の美しい頬へ、ピラピラッと四、五本の針が吹き刺さりました。
「あッ!」と藤巻石弥も同時に目を抑えて飛びのきました。その隙を狙った老婆は、黒布を翻してドドドドッと大廊下から庭先へ飛び降りました。
「それっ!」
近侍をはじめ侍女たちが薙刀を構え、八方からワッと追いかぶさりましたが、雪とも雹(ひょう)ともつかない不思議なものが、近づく者の目に刺さり、見る間に怪異な老婆の影は外曲輪の闇の中へ、飛ぶ鳥のように消えてしまいました。
不意の騒動で、ガランとした評定の間。
一羽の蛾がピラピラと飛んでいます。
……これは怪しい。
蛾は妖異の兆し。夏ならともかく、十二月に蛾が生きているはずがない――と思うと、その蛾は灯火に近づき、一つ一つの燭台を叩き回ったので、殿中はにわかにボォッと暗くなりました。
スゥーッとその蛾が吸い込まれてしまった先は、いつの間にか襖の陰に立っていた呂宋兵衛(るそんべえ)の口の中でした。
「滅光の口術(めっこうのくじゅつ)か?」
ニヤリと笑うと、彼は評定の間へスルスルと入っていきました。
四
暗闇の中で、呂宋兵衛はムズと何かを掴みました。
一同が評議にかけていた「秀吉袋攻めの秘帖」、それです!
彼はそれを片手に掴むと、ヒキガエルのようにして評定の間を這い出していきました。大廊下には人がいて、ワイワイと騒がしい。
そちらへは逃げられない。呂宋兵衛(るそんべえ)は次の間へとスッと抜け出したが、障子には槍を持った人影が映っている。
「こいつは危ない……」
と、あとずさりをした壁際で息を殺す。
その時、うしろから誰かが指の先で、チョイと背中をついた。
二寸ばかりあいた納戸襖のすき間から、手が伸びてきて呂宋兵衛の指にやわらかく触れた。
「蚕婆(かいこばば)だな……」
と、呂宋兵衛はすぐに肚(はら)のうちでうなずいた。
そして、手につかんでいた秘帖をスルリと引っ張られたが、婆が預かってくれるつもりなのだろう――そう思ってそのまま渡してしまった。
とたんに、「ズドン!」と短銃の弾がまつげをかすめた。
白い煙が評定の間でムクッと上がった。
いけねえ! と思った呂宋兵衛は、いきなり障子を開けるやいなや、バラッと飛び出した。すると待ち構えていた長身の槍先が、
「えいッ」
と、鋭い光を突きつけてきた。
「おッ!」
と、すばやく槍の千段(せんだん)をつかみとった呂宋兵衛が顔を見ると、驚いたことに、闇の中でもわかるあの鼻――そう、あの鼻の持ち主、上部八風斎(かんべはっぷうさい)だった。
こいつは苦手だ、とバラバラと元の部屋へ逃げ込むと、同時に佐久間玄蕃允(げんばのじょう)の声がした。
「曲者ッ!」
と組み付かれ、ドーンと次の千畳敷へ投げつけられた。
起き上がると、またふたたび、毛受勝介(めんじょうかつすけ)の大喝一喝。
「おのれ、間諜(スパイ)!」
グンと襟首を引っつかまれた。
が、今度は呂宋兵衛に、例の奥の手を出す余裕があった。
ポンとその手を払うや否や、跳び上がって広間の壁へ、守宮(やもり)のようにペタリと背中を貼りつけてしまった。
上部八風斎はすばやくそれを見つけて、槍の素扱き(もどき)をくれながら、ブーンと壁の下から突き上げた。
――もんどり打って呂宋兵衛の体が畳の上へ落ちたかと思うと、木の葉をめくるように一枚の畳がヒラリと起きて、槍へ被さった。
「おおッ」
と、毛受、佐久間が飛びつく間に、彼の姿は畳の下へ潜って消えてしまった。
「方々、方々、曲者はこの部屋でござる。千畳敷を取り囲まれい!」
毛受勝介が城中に響き渡るばかりに怒鳴った。
と――あら不思議、畳から次の畳へと、ムクムクムクと波のように動いていった。
そして、向こうの端の一枚がポンとめくれる――たちまち飛び出した呂宋兵衛は、脱兎のごとく大廊下から武者走りに逃げ出した。
「幻術師だ! 逃がすなッ」
とひしめき合って、あらん限りの武者がそちらへ殺到してしまった。
その様子を見すまして、はじめて納戸襖をソロリと開けた黒装束の人物が、押入れから飛び出した。呂宋兵衛から渡された攻軍の秘図を懐におさめると、別な方から築山を伝って、北庄城の石垣を滑り落ちていった。
秀吉をめぐる惑星
一
橡ノ木(とちのき)峠の大吹雪――。
軍飛脚か狼か、あるいは雪女でもなければ通るまいという道だ。
ところが、ひとりのお婆さんが元気なものだ。
歓喜天さまのお宮の絵馬を引ッぺがして、ドンドン焚き火をして暖をとっている。
黒い頭巾をかぶって、姿は気高い修道士だが、中身は裾野の蚕婆だ。
焚き火で焼いた兎の肉を、ひとりでムシャムシャと食べている。
「ここで落ち合う約束なのに、どうしたんだろう……逃げ損なってやられたのかしら」
同じことを、口のうちで何度言ったか知れない。
そのうち、麓の方から雪をかき分けてくる人影があった。
「おお、呂宋兵衛さま」
「婆、待っていたか」
かぶってきた蓙(ござ)を捨てて、焚き火のそばへ震えながら近づいたのは、同じ姿の呂宋兵衛だった。
「待っていたかも何もないもんだ、半日も先に来ていたんだよ」
「気の毒だった。捕手に逃げ口をふさがれて、足羽川(あすわがわ)の上を遠回りしてきたため、ばかに手間をとってしまった。それはいいが、城中で渡したアレは落とさず持ってきたろうな」
「城中で? おや、何を……」
「この呂宋兵衛が、命がけでとった柴田方攻軍の秘帖、秀吉公への土産にするのだ」
「いいえ、わしはなんにも知りませんよ」
「城中の暗がりで、たしかに汝(おまえ)の手へ渡したはず」
「ご冗談を……この婆はお前さんが働く前に、逃げ出したんじゃないか」
「はてな? するとあの手は誰だろう」
早打ちの男か、またサクサクとここへ雪の峠を越えてくる者があった。
頬かむりの上に藁帽子、顔はわからないが、蓑(みの)の下から大小の鐺(こじり)が見えた。
ふたりの前を通りかかって、
「吹雪がくる――、追手もくるぞ」
変なことを言って通り過ぎた。
「なるほど、また北から黒い雲が巻いてきた。日の暮れないうちに麓の宿へたどり着こう」
呂宋兵衛と蚕婆は、また伴天連になりすます約束で、サクリ、サクリと歩きはじめた。
案の定、ドーッと、陣太鼓をぶつけるような吹雪がきた。
燃え残った焚き火が雪に混じって虚空に舞い、歓喜天の堂の扉さえさらっていかれそうであった。
コメント