初級翻訳・神州天馬侠 第100話

吉川 英治

「今こそが大事な時であるぞ」と、私たちのような凡人を鼓舞してくださる教えなのであろう。
つまり、予言の裏に隠された真意を汲み取れば、
 ――ここで全力を尽くさねば、おまえと父・勝頼公が再会する望みは、永遠に失われるぞ。
 ――ここでのんびりと無駄な時間を過ごせば、小太郎山の砦も危ういことになるぞ。
という警告に違いない!
 忍剣もそう解釈しました。
龍太郎も、きっとその通りだと言いました。
こうして、武田伊那丸は、より一層強い希望を抱きました。
武者震いとでもいうのでしょうか、全身の血と肉が躍り立つのを、自分自身でもはっきりと感じました。
「おのれ和田呂宋兵衛、今日こそは、必ずや貴様のその手から父君を奪還してみせるぞ」
 固く、強く、そう誓いました。
そして、予言の文字に吸い寄せられていた瞳を上げ、ふと有明の空を見上げると、おお、希望の象徴! 熱き血潮の輝き! 燃えるような日の出が、白い馬に黄金の鞍を置いた若武者のように、東の雲を破って現れました。
夢から覚めたように周囲を見渡すと、舟岡山は朝の光で青白く明けています。
春の夜明け! 春の夜明け! 小鳥たちがさえずりながら歌っています。
森を越えて紫野の里には、薄桃色の花の雲がたなびき、今宮神社の大屋根が青くさびて見えています。
「夜が明けた!」
 竹童が、飛び上がるような声で言いました。
「おお!」
 龍太郎と忍剣も、キリッとした表情で伊那丸の顔を見つめながら言いました。
「若君、時間を無駄にしては一大事です。
とにかく竹童を先に走らせて、天ヶ丘の様子をしっかりと見届けさせましょう」
「うむ。そして我々は、寒松院の松並木に潜んで待ち伏せよう」
「それが、最上の策と考えます」
「竹童」
「はい」
「心得たか」
「承知いたしました」
「では、これを――」
 龍太郎が狼煙筒(のろしづつ)を竹童の手に渡し、言いました。
「呂宋兵衛をはじめとする天ヶ丘の者たちが、山を下りて寒松院の並木へ差し掛かる頃を見計らって、この狼煙を打ち上げてくれ。
突然の狼煙の音に驚かされて、奴らは必ずうろたえるはずだ」
「その隙を突いて、呂宋兵衛の一族を追い散らし、勝頼公の乗る駕籠を奪い取る、というご計画でございますね」
「その通りだ。
機を逃さぬようにしてくれ」
「かしこまりました。では皆様、行ってまいります!」
 般若丸を差し直して伊那丸に一礼すると、竹童はひらりと岩の上から飛び降りました。
そして、バラバラと舟岡山を駆け下りていく彼の姿を見送っていると、あっという間に崖を越え、雷神の滝の流れを飛び越え、やがて森の向こう、紫野の果てへと霞むように消えていきました。
その速さといったら、まるで鹿のようです。
もっとも、あの険しい鞍馬の谷や細道に慣れきっている竹童にとって、ここの山や森などは、平らな芝生の庭を駆けるようなものなのでしょう。
「あの方をご覧ください」
 龍太郎が、走り去るその後ろ姿を指さして言いました。
「竹童は、今朝のことなどすっかり忘れているようです」
「何をだ?」
 と、伊那丸が尋ねました。
「昨日まで目が見えなかったことや、老先生のお力で急に視力が戻ったことを、まるで忘れているらしいのです」
「ほう……それもまた童子らしいところだな」
 微笑みを浮かべて眺めていた伊那丸は、愛らしくて頼もしいやつだと思い、うなずきました。
やがて、その三人も雷神の滝の岩頭を降りました。
そして、敵の回し者に気づかれないよう裏道を通り、ひそかに寒松院の松並木に隠れ、腕をさすりながら、合図の狼煙を待ちわびていました。

二

「おお、寒い」
 正気に戻り、ポカンとあたりを見回したのは、昨夜、今宮神社の境内で馬に蹴られて吐き出し、そのまま気絶していた泣き虫の蛾次郎です。
「おお、寒い、寒い、寒い……」
 ガタガタと震えています。
ひょいと見ると、目の前には自分の吐いたご馳走やら、馬の糞やら紙屑やらで、きれいなものなど何一つありません。
この汚れだらけの地面の上で気を失って寝ていたかと思うと、いくら図太い蛾次郎でも、さすがに少し情けなくなり、今朝の目覚めはあまり気分の良いものではありませんでした。
「ああ、おなかがペコペコだ……」
 起きるとすぐに、食べることの心配ばかりを始めるのでした。昨夜すっかり吐き出して、今朝は胃袋がカラッポになっているとみえて、食欲ばかりになった目で、あたりをしきりキョロキョロと見回しながら、
「なにかないかな、なにかないかな……」
 泥だらけの着物もはたかずに、ふらふらと立ち上がりました。
その姿や寝ぼけ面がおかしいのか、すぐそばの神馬小屋で、白と黒の二匹の馬が「ヒーン」と鼻で吹き出しました。
すると、頭の上のモチの木でも、カラスが「カーッ」と鳴き交わしました。
虫の居所が悪かったのか、
「バカぁ! てめえのことじゃねえやい!」
 と、蛾次郎はカラスを怒鳴りつけて、スタスタと向こうへ歩き出しました。
すると、あった! あった!
 あるお堂の神の前に、蛾次郎の見逃せないものがありました。
お蕎麦まんじゅうのお供え物です。
昨日のお祭りに、村の人たちが供えたものでしょう。
三方(さんぼう)の上にうず高く、大げさに言えば富士山のようにつみ上げられていました。
「犬も歩けば棒にあたる!」
 まさにこれだこれだと、蛾次郎はそこで、よだれをたらしながら見とれてしまいました。
「ちぇっ、ありがたし、かたじけなし」
 と、泣き虫の蛾次郎は自分の額をピシャリとたたいて、神様に感謝しました。
だが、さて口の中に唾をわかせてみると、困ったことに厳重な柵がめぐらしてあって、いくら長い手を伸ばしてみても、とてもそこまでは届きません。
「ウーム、いまいましいなぁ」
 宝の山に入りながら、このお蕎麦まんじゅうに手が届かないとは、なんと残念でたまらないことだろうと、胃液をわかせながら蛾次郎の目がすわってしまいました。
だが、こういうことに対しては人一倍熱心な蛾次郎です。
たちまち一計を案じ出して、お蕎麦まんじゅうの泥棒をやりはじめました。
そこら辺で見つけてきた一本の細竹の先を削ってとがらせ、柵の外から手を伸ばして、三方の上のまんじゅうを上から一つずつ突いては取り、突いては食べ、口の中に五つほど、ふところの中に八つほど、まんまとせしめてしまったのです。
「エヘン!
どんなものだい、蛾次郎さまのお手並みは」
これで非常食もでき、目もすっかり覚めました。
「さあ、これからきょうはどうしよう、どうしておもしろく遊ぼうか」
 富士の裾野を出て以来、大きな鳥に乗って北国も見たし、東海道も見物したし、奈良のお寺、大和の平野、京都の今宮祭まで見たから、今度は思いきって四国へ飛ぼうか、それとも九州へ行こうか?
 なにしろ――前途は洋々たるものです。
とりあえず今日は天ヶ丘へ帰って、ゆっくりと考えたうえにしよう。
おお、天ヶ丘といえば、自分ばかりごちそうを食べ歩いて、犬のクロのことをすっかり忘れていました。
あの丘の奥の松の木に鎖でしばりつけておいたから逃げる心配はないけれど、きっとおなかをすかせていることでしょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました