初級翻訳・神州天馬侠 第140話

吉川 英治

「まだ朝飯が配られませんね」

「寝るから起きるまで、食うことばかり言っていやがる」

「いえ、私は何ともないですが、親方がお腹を空かせているのではないかと思いまして」

「余計な心配をするな」

「へい」

「それより貴様も谷間へ降りて、なぜ皆と一緒に働かないか。なまけ者め」

「オッ、帰ってきたぞ!」

 じっと見下ろしていた伊部熊蔵がこう叫んで待ち構えていると、そこへ小頭の雁六が、どうしたことか顔を真っ青にして、息を絶え絶えに登ってきた。

「どうした、ほかの者たちは?」

 上がりきる前から熊蔵が急かすと、雁六は額の傷で、片目に流れ込む血を押さえながら、

「た、大変です!」

 と、うなるような声で言った。

「谷へ降りた者は、ひとりのこらず皆殺しにされてしまいました! 熊蔵さま、わ、わっしだけ、ようやく逃げてきたんです」

「な、なんだって?」

 熊蔵は、立っている足元が地滑りでもしたかのように驚き、

「ど、どういうわけだ? まさか、竹童が?」

「その竹童の体を探しに、だんだん薄暗い檜谷へ降りていくと、ピューッと、鵯(ひよどり)でも鳴いたような笛の音がしたんです」

「ウム、そして?」

「それと同時に、頭の上から疾風のような手裏剣が飛んできて、バタバタと四、五人が不意に打ち倒されたので、『あッ』と思ったがもう遅い……。檜の上や笹むらの中から、ひらひら、ひらひらと、まるで蝶々のような奴らが……三、四十人の女です!」

「女?」

「霧のように消えたかと思えば、またワッと蛾のように舞い立つ。それで不思議な陣を組まれて、こっちは煙に巻かれたようです。逃げる、防ぐ、斬り合う、火縄銃に火をつける……そんな暇など、ありゃしませんでした!」「谷間へ落ちたり、渓流へすべりこんだり、かよわい女の刃先に、大の大人がさんざんな有様だ」
「うーむ、ちくしょう、咲耶子(さやこ)の仕業だなッ」
「そうだ!」
 と、後ろでヌッと卜斎(ぼくさい)が立ち上がった。
「裾野で一度見たことがある。謙信流、楠流、永沼流、小早川流、甲州流、孔明流、唐の孫武陸子の兵法にもない『胡蝶の陣』! あれは咲耶子が野武士たちを相手に鍛え上げた、不思議な陣法ですよ」

地蔵行者の変った旅

一

 ドーン! ドーン! 鉄砲の音が響く。
つるべ打ちに放たれた銃火の轟音は、谷に反響して二倍の大きさになって聞こえた。
檜(ひのき)谷一面の暗い緑色の木立のあいだから、白い硝煙が湯気のようにムクムクと空へ立ちのぼる。
向こうの峡谷で笛が鳴った。
と。
もんぺを穿き、白い髪止めをした一団の少女たちが、ひとりの童(わらべ)の手足を持って助け合い、森から沢へ、沢から渓流へ、浅瀬をわたってザブザブと峡の向こうへよじ登っていく。
鳴る、鳴る、鳴る! 笛はさらに高い音を続けて鳴らす。
バラバラと峡の崖から細道へ降りてくる少女が見えた。上から手を伸ばして童を受けとる。
その敏捷さは驚くばかりで、螺旋状(らせんじょう)の細道を奥へ奥へと見ているうちに走りだした。
と思うと、その半数はどこかへこつぜんと消えてしまった。
「それッ!」
「どこまでも追い撃ちをかけろ!」
 渓流を越えて追撃してきたのは、伊部熊蔵(いべくまぞう)と雁六(がんろく)を先頭にした一隊である。
みな、谷川で火縄を濡らしてしまったので、鉄砲を捨てて大刀を抜く。
槍を持った者は石突きをついて、ポンポンと石から石へ飛び移って歩く。
こういう場所では、南蛮渡来の新鋭な武器もかえって不便なのだ。
道案内は地学者の鼻かけ卜斎、その腰について歩くものは天下の泣き虫・蛾次郎(がじろう)である。
蛾次郎はすばらしく興奮していた。
司馬仲達を追いかけ回す諸葛孔明(しょかつこうめい)のような高い気概。
なんだか、自分ひとりの威勢のために、咲耶子の胡蝶の陣が逃げ崩れていくような気持ちがして――。
すると、不意に――
 峡の細道から三、四人、芋虫のように渓谷へ転げ落ちた。
あッ……と仰ぐと、天を突く楢(なら)の木のてっぺんから、氷雨のような矢! ピラピラと白い羽根の細矢が飛んでくる。
梢(こずえ)の葉隠れに、楢の木に花が咲いたように、半弓を持った少女が十二、三人ほど見えた。
タジタジと後へ引いた熊蔵の一隊、槍をそろえ、白刃を囲んで、降りてくるところを待ち構えたが、一陣、楢の梢が暴風のように揺さぶられたかと思うと、落花か? 胡蝶か? いや、それよりも軽快に、彼女たちの姿は枝から枝へと飛び移り、次の木から次の木へ、そしてついに思わぬところの崖へ――山千鳥(やまちどり)かとばかりに散ってしまった。
大久保長安の後詰(うしろづめ)の手勢、百人ばかりは別の道から緋おどし谷へ向かっていた。
糸染川(いとぞめがわ)と神仙川(しんせんがわ)の合流するところで、熊蔵の一隊と一つになり、聖地のような百合の香花を踏み荒らし、もうもうとした塵を上げて、例の蔦(つた)のかけ橋まで殺到した。
「おお、こんなところに人家がある」
「あの女雀(めすずめ)どもの巣であろう」
「それッ!」
「片っ端から火をかけて皆殺しにしてしまえ!」
「いや、手捕りにして、砦の下婢(げひ)にこき使ってやるのもよいぞ」
「かかれ!」
 殺気をみなぎらせた百六、七十人の軍兵が、一度にドッとかかったので、蔦のかけ橋は弓なりにしなって左右に揺さぶられ、今にもちぎれて渓谷へ人間をぶちまけてしまうかと思われた。
人家へ迫ると、その人数が「ワアーッ」と鬨(とき)の声を合わせた。
万が一、計略があるのでは? と武者声を張り上げて、敵の反応をさぐるのだった。
すると――
 討って出る敵はなかったが、どこからともなく幽玄な妙音を転がしてくる、八雲琴(やくもごと)の音があった。

二

「やッ……琴の音がするッ?」
 慄然(りつぜん)として武者足が止まってしまった。
温熱のような殺気は琴の音に吹き払われて、ただ、ぼうぜんと不思議そうに耳をすます軍兵の目ばかりが光り合う。
なぜ? 血を水のように見る荒武者が、やさしい琴の音などにすくんでしまったのだろうか。
中にまじっていた卜斎はそういぶかしく思ったが、それを怪しむ彼自身が、すでに妙な錯覚にとらわれて、疑心暗鬼を眼底に隠していたことを知らなかった。
ひとりこの時かまわずに、琴の音のする家のほうへ駆け出していったのは、蛾次郎であった。
だが、彼の行動は誰より勇敢といえるだろうか。
それは問題としても、蛾次郎が来たまま駆け抜けていったのは、錯覚などを起こすほど細かな神経を持ち合わせていない証拠にはなる。
(いい間諜(スパイ)が行った)
 というふうに一同は遠巻きにして眺めている。
みんなが見ている!
 蛾次郎はやや得意の様子だ。
振り返ってニヤリと笑う。
そして小高いところへ登った。
雅人(がじん)の住居でもありそうな茅葺(かやぶき)の家。筧(かけひ)の水が庭先にせせらいでいる。ここは甲山の奥深く。晩春の花と盛夏の花が、時を同じくして辺りを彩っています。磨き上げられた竹の縁側は、塵ひとつなく静まり返っていました。
奥ゆかしい萩の垣根。
そこから蛾次郎(がじろう)は、鼻くそをほじりながら、背伸びをしてのぞき込みました。

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