初級翻訳・神州天馬侠 第154話

吉川 英治

「では、失礼いたします」

腰を屈めてスッと下がった老臣の伊東十兵衛は、袴のひだをつまみ上げました。いま、殿の部屋に入る時は脇部屋の外に置いておいた手槍を持とうとして、そこを見ると、あるはずの槍が見当たりません。

ガラガラガラと妙な音が向こうへ駆けていくのに、戸惑いながら目をそらすと、見当たらないはずの自分の槍が長廊下を向こうの方へ引きずられていくではありませんか。

「ちっ、いたずら者め!」

腹立たしげに舌打ちをして追いかけると、それを持っていた三太郎猿は、手をすべらせて庭先へ槍を落としました。十兵衛の方を振り返ると、「ケン!」と人を馬鹿にしたような奇声を発しながら、萩の袖垣から老梅の枝へと、軽業師顔負けの身のこなしで逃げてしまいました。

そこへ、白刃を下げて表木戸の方から駆けてきた侍が、

「おや、これはご家老のお槍ではございませんか」

と言って拾い上げ、庭先から手渡してくれました。

「うむ、伊部熊蔵か。よいところへ来てくれた」

十兵衛は、石見守から言いつけられたことを手短に話しました。

「表の方も気がかりだが、咲耶子を逃がしては浜松城の方へ申し開きが立たんことになる。何を差し置いても、すぐ腕利きの若侍を連れて、源氏閣の上へ駆けつけてくれい」

熊蔵としては、庭の手前にある白壁門の方の状況を主人に告げるつもりでここへ来たのでしたが、出合いがしらに老臣からそう急かされて見ると、言葉を交わす間もなく、

「そりゃ大変です! 心得ました!」

と元の場所へ引き返し、築山の一角から例の鉱山掘夫が使う山笛を吹き立てました。すると、たちまち真っ黒になるくらいの人数がわらわらと彼の周りを囲むように集まりました。

「おまえと、おまえと、おまえと、おまえ!」

伊部熊蔵は、その中で腕が立ちそうな顔を指さしで十二、三人ほど選り抜くと、

「源氏閣へ来い!」

と自分が先頭を切ってバラバラと駆け出しました。しかし、またひょいと後ろの者たちを振り返り、

「残った者は殿のご寝所を守れ! もう木戸や多門の固めには十分人数がそろったから、まさか敵が突破する恐れはあるまい」

と言い捨てて桜雲台へ駆けつけていきました。桜雲台は躑躅ヶ崎(つつじがさき)七殿の中核であり、源氏閣の建物はその上にそびえ立っています。

普段は錠口より奥、家来は立ち入り禁止の場所ですが、いま老臣・十兵衛が先に回って触れ回ってあったので、一同は表で血戦してきたままの土足・抜刀の荒々しい姿で、螺旋状の階段口から二層目へ駆け上がりました。それより上は階段が外されていたので、一同は鈎縄(かぎなわ)や数珠梯子(じゅずばしご)などを投げかけ、「われ一番乗り!」とよじ登っていきました。

……

閣上の「源氏の間」には、一穂の灯火が、切燈台の油を吸い尽くしてジジジと泣くように明滅しています。あたりはさっきのままです。ただ、銀泥色絵の襖の前には、蒔絵の硯蓋(すずりぶた)の筆が一本落ちており、そこにいるはずの咲耶子の姿も見えず、お小姓・星川余一の影も見当たりません。

「おお、いない!」

数珠梯子から飛び上がった伊部熊蔵と伊東十兵衛は、予期していたことではありましたが、愕然として顔を見合わせました。

その途端でした。

頭の上でガラガラと異様な物音を聞いたかと思うと、四、五枚の青銅瓦が、廂(ひさし)の端から落ちてくるなり、本殿平屋の瓦の上ですさまじい金属音を立てました。そして、まさしく屋根のてっぺんから、

「お出合いなさい! お出合いなされ! 大久保家のご家中の方々、あやしいものが逃げまするぞ、早く、早く、早くここへ!」

高いところで声を嗄らしている小姓・余一の絶叫が、一同の頭上からけたたましく聞こえてくるのでした。

二

「あれだッ――お使者の声!」
「おお、屋根、屋根の上だ!」
「登れ!」
「咲耶子を生け捕りにして余一を助けろ!」

慌てふためいた十兵衛の指図と熊蔵の叱咤が、若侍たちの先駆けを煽りました。廂の上へ抜け出る隠し階段を探す者、欄間に足をかけて釣龕燈(つりがんとう)の鎖をつかみ、三太郎猿が得意とする離れ業の真似事をして屋根の上へ這い上がろうとする者――咲耶子と余一は、一体どこから屋根の上へ登ったのか、血気にはやる若侍たちにとっても不思議なくらい、この一番乗りは骨が折れました。しかし、あとになって心得のある者に聞くと、すべてこうした楼閣には修築手入れなどの際のために、工匠が上下する足がかりが棟のコマ詰めから角垂木(すみだるき)の間にかけて隠してあるもので、みんな上へ上へと気ばかり焦っていたので、その工匠口には少しも気がつかなかったのでした。

それでも、一斉にとはいきませんが、どうにかこうにか時間をかけて上に登ることはできました。そして初めて「様子はいかに」と坂になった屋根の端から首を出して仰ぎ見てみると、

「わあーん、わあーん……わあーん……」

浜松城のお使番は、満天の星にくるまれた閣の尖端、擬宝珠(ぎぼし)のそばで、手放しに大声を上げて泣いていたのでした。「あれッ?」
伊部熊蔵は、あっけにとられてしまいました。
まさか、浜松城からやってきた使者の星川余一という者が、まだ十三、四歳の子供だったとは考えてもみなかったからです。
立って歩くこともできないような、勾配のきつい青銅瓦の上を、のしのしと不器用にはい上がって近づくと、
「その方は、いったい誰であるか」
と尋ねました。すると余一は、泣き顔のまま手を離して、
「お小姓とんぼ組の、星川余一……」
と答え、また声をあげて泣き出しました。
「なんと、ではそこもとが、公用のお使番として参られた星川殿か」
「は、はい……」
「何を泣いておられるのか。たった今、三太郎猿が首につけてきた知らせを見て、殿もことのほか大層驚かれ、すぐさま援軍として我々がここへ駆けつけてきたというのに。おお、それよりもこの閣に監禁しておいた咲耶子という女を知らぬか。あれを逃がしては一大事なのだ」
「だから……だから私が……『早く来てください』と、あれほど叫んでおりましたのに!」
しゃくりあげて、余一はまた悔しそうに肩を震わせながら、
「もうダメ! もうダメです! みんなの来るのが遅いから、私がここで一生懸命押さえていた咲耶子は、とうとう擬宝珠(ぎぼし)につないでおいたクロを奪って、あれあれ、あっちへ――」
「えッ」
「逃げちゃった、逃げちゃった……。あのクロをなくしては、私は浜松城にいる万千代様に帰ってお詫びする言葉もございません」
余一はそう言って泣き続けたのです。
「逃げた!」と聞いて驚いた熊蔵や、すっかり拍子抜けした若侍たちは、半信半疑で辺りを見回しました。どこへ逃げたのかと、明け方に近い空と地を見渡すと――。
水色に澄み渡った夜明け前の空には、黒い影一つありません。ただ一閃、惑星のそばの星が、青い弧線を描いて巽の方角から源次郎岳の肩へと流れていきました。
また足元を見下ろすと、竹童と蛾次郎の争いから始まった馬糧小屋の火事は、その小屋だけを焼き尽くして炎を鎮め、薄い白煙と真っ赤な残り火を、闇の底にまだチラチラと見せています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました