初級翻訳・神州天馬侠 第171話

吉川 英治

一同を眺めると、ニコニコとして迎えながら、

「失礼だが、お祝いに一献まいろう」

と、忍剣へ茶碗を持たせて、酒の入っているらしい壺を取りあげました。

「や、これはかたじけないが、自分は見ての通り僧形の身、幼少から酒の味を知ったことがない。兄貴、かわってくれ」

と龍太郎へ茶碗をゆずると、龍太郎もあやまって、

「武術に酒気のあるのは禁物ということ。未熟者にとってはことに大事な試合、もし不覚があってはもの笑いの種ともなりかねないから、まずお志だけをうけて、お祝いはあとで頂戴いたす」

と、当たり障りなく言って、茶碗を返しました。

「あはははは、なるほど、まだ前祝いは少し早いな。では後祝いにいたして、自分がご一同に代わり、まず幸(さき)を祝福しておく」

と、侍は快活に笑って、ひとり酌をし、ひとり飲み、しきりと愉快がっています。

そこへ、冷水をたたえた手桶に小柄杓(こびしゃく)、それに汗止めの白布をそえて運んできた若い武士がいました。一同にその使用をすすめたのち、

「拙者は大坂城に人質としておる真田源次郎という若輩者、どうかお見知りおきを」

と、丁寧に名乗りました。

「や、では秀吉公の」

と忍剣や龍太郎は、はじめて五三の桐の紋所に思い至り、

「真田源次郎殿とおっしゃると、上田の城主・真田昌幸殿のご一子、秀吉公の手もとで養われていると噂に聞きましたが、その源次郎殿でござるか」

「お恥ずかしい限りでございます」

と、源次郎はあくまで謙虚でした。

「やあ、さてはやはりそうであったか。これはお見それいたしました」「わたしこそは、何を隠しましょう、今は亡き勝頼公の忘れ形見、武田伊那丸君の付き人をしております、恵林寺の禅僧、加賀見忍剣(かがみ にんけん)と申すものです」

「自分は同じく伊那丸さまの微々たる家臣、木隠龍太郎(こがくれ りゅうたろう)と申します」

「拙者は、山県蔦之助(やまがた つたのすけ)です」

礼を尽くせば、礼をもって報いる。巽小文治(たつみ こぶんじ)や鞍馬の竹童(くらまの ちくどう)も、その言葉に続いて次々と名を名乗りました。すると、最初に幕の陰から手招きしてくれた可児才蔵(かに さいぞう)もこちらへやってきて言葉を交わし、酒を飲んでいた侍も、井上大九郎(いのうえ だいくろう)と名乗り合いました。

かつて伊那丸が京都から東へ帰る際、秀吉は桑名の陣中で親しく迎え入れ、道中の保護をしてくれただけでなく、武田家の家宝である「御旗(みはた)」や「楯無(たてなし)」の鎧までも伊那丸の手へ返してくれたことがありました。それ以来、伊那丸も一党の者たちも、豊臣家に対して自然と良い印象を持っていました。おそらく秀吉は武田家の味方というわけではないだろうが、少なくとも悪意ある敵ではない、そう信じてきたのです。

思えば、不思議な縁というものです。桑名であのような援護を受け、そしてまたここ御岳(みたけ)でも、同じ「五三の桐」の幕の陰で、武士の情けを受けることになろうとは。

二

大九郎と可児才蔵は、桑名の陣で忍剣の顔を覚えていたと言いました。そう言われてみれば、忍剣にも記憶がよみがえります。あのとき、秀吉に仕えていた数多の武将や侍の中に、確かに大九郎の姿がありました。可児才蔵の顔もありました。

怪傑と怪傑、勇士と勇士。五三の桐の幕の中では、彼らはすっかり打ち解け合い、意気軒昂(いきけんこう)な空気が満ちていました。

――試合場のほうは、さきほどから際立って静まり返っていました。群衆も鳴りを潜め、次の展開を待ち構えているのでしょう。そこへ、駒を飛ばしてきた一騎の使者が到着し、ヒラリと降り立つと、外から桐紋の幕をたくし上げて入ってきました。試合の前の打ち合わせです。

徳川家からは、五名の闘士の名が挙げられてきました。そして、勝ち抜き戦では勝敗にきりがないため、それぞれが一回ずつの勝負を行い、勝ち越したほうが咲耶子を連れて行くという約束を条件として書き連ねてありました。

「承知した」

もとより、こちらに異議はありません。

「では、試合に先立ちまして、伝令の者が各所の溜まり(控え所)の人々へ対戦番組を予告するのが定例でございますゆえ、そちらの闘士を決めて、この下へご記名願いたい」

使者は、徳川家で選び出した闘士の名を記した奉書(ほうしょ)を広げました。それを見ると、なんという皮肉でしょうか。通常の武芸では勝てないかもしれないと、大久保長安らがわざと相手を困らせようと企んだ、卑劣な魂胆がありありと読み取れました。なぜなら、その人選はともかくとして、勝負の焦点となる種目について、こちらになんの相談もなく、このような無茶苦茶な部門分けをして、勝手な注文をつけてきたのです。

一番:忍法  味方:隠密組 菊池半助  相手方:未定
二番:遠矢  味方:河内流 加賀爪伝内 相手方:未定
三番:吹針  味方:宗門御抱老女 修道者 相手方:未定
四番:幻術  味方:南蛮流 和田呂宋兵衛 相手方:未定
五番:遠駆  味方:浜松足軽組 燕作   相手方:未定

定(さだめ)

以上五試合のこと。
右のうち、吹針には他の武技をもって試合することを得。また遠駆には、相手方は騎乗・徒歩いずれも随意たるべきものなり。

大講会総奉行 大久保石見守(花押)
試合検証 鐘巻一火

三

正当な武芸とは言えぬ、幻術や遠駆といった試合を提示してきたのを見て、一同は彼らの卑怯な心底を見抜き、一言のもとに突き返してやろうと考えました。しかし、よく考えてみると、自分たちはここで晴れがましい武名を大衆に売りたいわけではありません。咲耶子という一人の命を救えばそれでいいのです。彼らを打ち負かして、彼らの毒手から同志の一人を守り抜く、それさえできればいい。

つまり、ここで徳川家の代表者と争うのは、あくまでそのための手段に過ぎないのです。そこで忍剣は、男らしく言い放ちました。

「この際、何をぐずぐず言っても仕方がありません。先の注文通り快諾してやり、その代わりに木っ端微塵にしてやろうではありませんか」

「うむ。彼らの策略に乗せられると思えば不愉快だが、得物や技は枝葉のこと。承知してやろう」

龍太郎もそう頷き、他の者たちの同意を確かめたうえで、決然と徳川方の使者に答えました。

「ご提示の定書、たしかに承知いたしました」

使者は一礼して、「さっそくのご承諾、かたじけなく存じます」と言いましたが、先ほどの書き付けを差し出して続けました。

「では、この試合の部門に、どなたがどの立ち合いに出場されるか、流派の名と氏名を正直にお書き入れ願いたい」

「いや、われらもとより浪々の身、定まった住処もなき者たちである」「名乗るほどの名前や流派も持ち合わせていない者たちですので、先ほど申しました通り、文殊菩薩とでも大日菩薩とでも、お好きなようにお書き入れください」

「大講会の決まりとして、そうはいきません。

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