ご本名を記していただかないことには、諸侯の控え所へ伝令を出すこともできませんし、奉行としても役目上、試合を命じるわけにはまいりませぬ」
「どうしよう、忍剣(にんけん)」
と、龍太郎は、隣にいる忍剣に相談を持ちかけました。
「そうだな。我々はどんなことになっても構わないが、万が一にも若君にご迷惑をおかけするわけにはいかないからな……」
「しかし、大講会の開催期間である三日間は、血を流してはならないという誓いがある。構わないから、本名を記してやろうではないか。どうだろう、蔦之助(つたのすけ)」
「すでに豊臣家の方々には正体を打ち明けていることだし、我々も名乗ったところで問題はあるまい」
小文治(こぶんじ)もそう同意しました。そこで一同は、作戦を練るために隅へ寄って相談したうえで、それぞれ国籍と本名を包み隠さず記入しました。
(あいつら、これを見たらきっとびっくりするに違いないぞ)
そう思っていると、案の定、使者は五人の記名と彼らの姿を見比べ、ガクゼンと目を丸くしたまま、あとの言葉も出ない様子で幕の外へ飛び出していきました。
さらに、それ以上に仰天したのは、使者からの報告で初めてことの真相を知った大久保石見守(いわみのかみ)であり、和田呂宋兵衛(わだろそびょうえ)であり、その他、徳川家に籍を置くすべての者たちでした。
「さては……」
と、彼らの顔色は一様に変わりました。
「咲耶子(さやこ)を渡せと息巻いて、あそこへなだれ込んできた理由が分かった。多寡の知れた僧侶や浪人者と見くびって、わざと家中の侍は出さず、呂宋兵衛や吹針(ふきばり)の婆をあの番組の中に組み込んで翻弄してやろうと思ったのだが……そうと知っていれば、もう一工夫するんだった」
石見守には、後悔の様子が見て取れました。しかし、すでに時刻は迫り、審判の鐘巻一火(かねまき いっか)は床几(しょうぎ)に座り、観衆も息を潜めて立ち会いを待ち構えています。悔やんでも仕方のない状況でした。
あとは万が一にも、彼らに負けるわけにはいきません。もしも正当な約束のもとで試合をして、堂々と咲耶子を連れ去られるようなことになれば、それこそ石見守の立場がありません。彼の失態は、何としても免れないのです。そのため、長安は躍起になりました。菊池半助(きくちはんすけ)も、事の重大さを察して、呂宋兵衛にこっそりと耳打ちしていました。
そうこうしているうちに、準備を知らせる陣貝が静かに鳴り渡りました。……遠くから響く太鼓の音。型通りの黄母衣(きほろ)、赤母衣(あかほろ)、白母衣(しろほろ)をまとった伝令の三騎が、番外の五試合を各所の控え所に触れ回り、虹のように試合場のまわりを一巡していきます。
水を打ったように、群衆の話し声と土埃が静まり、再び御岳(みたけ)の広場に、森厳な空気がひっそりと降りてきました。大雨が過ぎ去った後のような静けさです。次にやってくるのは嵐か、それとも雷か。
試合は始まりました。浜松城の隠密組・菊池半助が、いつの間にか広場の中央にすっくと立っています。得物を持たず、たすきや鉢巻きもしていないので、この番外試合のいきさつを知らない一般の群衆には、少し拍子抜けした様子で不思議そうに見つめられていました。
相手方は、やがて向こうの隅にある豊臣家の桐紋の幕を上げて歩み出してきました。こちらも同様に、これといった準備らしい身支度はしていません。ただ、観衆の好奇心を少しだけ満たしたのは、その人物が白衣に白鞘の太刀を差した、旅の僧のような風采をしていたことでした。
忍法試合とは、一体どういうことか? このような白日の下、大勢の衆目がある中で、忍術の秘法をどうやって競うというのか。争うとしたら、何をするのか?
ことの真相を知らない場外の見物人たちは、いろいろと妙な顔をしています。一方で事情を知っている人々は、大鷲の背から捨てられた美少女の一身が、いずれの手に渡るのかと、じっと固唾(かたず)を呑み始めました。
これまでの意地や興味を超越し、ある運命と凄まじい殺気をはらんだ番外五試合は、こうしてまさに火蓋を切ろうとしていたのです。
四
伊賀流の忍者・菊池半助と、果心居士(かしんこじ)の教えを受けた木隠龍太郎(こがくれ りゅうたろう)とが、双方、水のように静まり返ったとき、耳を突き抜くように短笛の音が鋭く響きました。
と、同時に。
向こうの葵紋の幕の中から、花壇のように華やかに盛り上がっていた小姓とんぼ組の一隊が、とんぼ模様の揃いの小袖をひるがえし、サッと試合場の一方に走り込んできました。三十六人が十二名ずつ三行に分かれ、目にも鮮やかな隊列を作りました。
「鶴翼(かくよく)!」
と、朱色の房のついた鞭を振るったのは、それを指揮する徳川万千代(とくがわ まんちよ)でした。三段の隊列は中央から真っ二つに割れ、たちまち美しい鶴翼の陣形を組み上げました。
「奉行、これでよいか」
と、万千代は得意げに床几の席に向かって言い放ちました。石見守は、真っ赤な鞠(まり)を一つ取り出し、万千代の手に渡しました。
すると審判の鐘巻一火(かねまき いっか)も同じように、一つの白い鞠を星川余一(ほしかわ よいち)の手にお預けしました。
そこでふたたび鞭を振り上げると、とんぼ組の隊列はそのまま静かに前進し、頃合いを見て「鳥雲(ちょううん)の陣」へ崩れ、また「魚鱗(ぎょりん)の形」に結び直すなど、しきりと厳重な陣立てを編もうと工夫している様子でした。やがて「八門の陣」をしっかりと編み上げると、まるで将軍の寝所を守る衛兵のように、三十六人がきびきびと分かれて立ちました。
その陣形の中心に、白球を持った星川余一と、紅球を持った万千代が油断のない面持ちで立つと、菊池半助はその紅球を奪って元の場所へ戻ることを、また木隠龍太郎(こがくれ りゅうたろう)は一方の白球を奪うことを、試合目付から命じられました。
これは伊賀流の忍びを誇る半助にとっても、木隠龍太郎にとっても、恐ろしい難事であると思われました。
そもそも忍術というものは、夜陰に乗じてこそ鼠のように忍び歩く法も行われ、木があればこそ「木遁」、火があればこそ「火遁」の術も使えるというものです。しかし、この真っ昼間、しかもこの試合場のなかで、三十六人のとんぼ組の小姓たちが八門の陣を組んで守っている鞠を、どうして気づかれずに自分の手へ取り戻し、元の場所へ帰ることができましょうか。
「いざ!」
「目をかすめて、忍べるものなら忍んでみよ」
と、小姓とんぼの面々は油断のない目を大きく見開きました。
両士はサッと左右に分かれて、八門の陣の隙をうかがいます。
――とはいえ、そこには木陰があるわけではなく、身を隠す建物があるわけでもないため、もとよりどう手を下す法もないようです。
木隠が右へ回れば右へ、半助が左側を狙えば左側の目ざとい小姓たちの眼が光って動きます。
すると菊池半助は、突然とんぼ組の陣形の周りを、疾風のようにぐるぐると回り出しました。
彼らはその速さに目眩(めまい)がしてきたのか、ただ「あッ」と呆気にとられています。
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