初級翻訳・神州天馬侠 第188話

吉川 英治

そなたもその仲間に混じって、領土を争うだけの武門として終わるつもりか。
わたしは、そなたの将来を見込んで、願いたいことがある。
よく考えてほしい。今は天下にとって大事な秋(とき)なのだ。
そなたが、失った甲斐の領土を取り戻し、甲斐源氏の家を再興したいと願うのは、まさに孝行であり、正義であり、男子のなすべき事業である。
だが、考えてもみてくれ。今は天下の分かれ目なのだ。
今こそ、何人であろうとも私利私欲を捨て、世のため、あわれな民衆のために、野心に燃える群雄とならず、領土欲に走らない『まことの武士』が現れなければならない時なのだ。
まことの人が、この麻のように乱れた世を少しでも救わなければならない時なのだ。
聡明なそなたに、これ以上の多言は要るまい。
切に、そなたの反省を求める。
そして、そなたが祖父・機山(信玄)を超えた武士の業を成し遂げることを祈る。
秀吉や家康を超えていく姿を、この目で見届けたいと願っている。
また、こうして書き送ることは、自分一人の考えではない。
ある夜、高野山を密かに下りられた某という御僧の勧めもあるのだ。
また、折に触れて訪れる白髭の高士の意見も、ここに加わっている。
その高野の僧の名は明かせないが、高士の名は明かしてもよい。
それは、鞍馬の隠士・僧正谷(そうじょうだに)の果心居士(かしんこじ)である」

手紙はこれで終わっていました。
伊那丸は、狭く暗い闇の中から夜明けの空へ導かれたような心地がし、自分が真に進むべき道を教えられたような気がしました。
故郷へ、そして西の都へ――。

一

お時は、楢(なら)の木の幹につかまりながら、深い絶壁の下を怖々とのぞき込んでいました。
(どこの子供か知らないけれど、どうか、無事でいて……)
彼女は、自分の身の上に引き比べて、そう祈らずにはいられませんでした。
下を見ると目が回りそうになるので、あまり崖っぷちには近づけません。救助に向かった宮内の様子も詳しく見ることができませんでしたが、ときどき木の葉の隙間から、彼が動いているのが遠くに見えました。
「おお、水の中から引き上げたみたい……!」
お時の顔に、自分のことのような喜びの笑くぼが浮かびました。
すると、突然。
「こらッ。……どこからこの山へ入り込んだ!」
お時は、誰かの力強い腕に掴まれ、そこから後ろへと引き戻されました。
「あッ……」
彼女は震え上がり、地面に平蜘蛛(ひらぐも)のように手をついてうずくまりました。そこには、御岳の神官たちが、山へ入るための支度をして立っていました。
「ここは、許可がなくては登ることのできない『お止山』だ。それを知らぬのか」
「ち……ちっとも存じませんでした。道に迷い込んでしまったのでございます」
「見れば、質素で素朴な坂東巡りの者のようだ。道に迷ったのなら深くは咎めないが、一応、事情を詳しく調べてからでなくては帰すわけにはいかぬ。しばらくそこで待っておれ」
そう言うと、若い神官たちは何か急ぐ目的があるらしく、バラバラと千年ブナの根元へ駆け寄りました。
三人ほどの者が袖をからげてブナの木へよじ登ると、ご神刑に処されていた忍剣の縛めを解き、抱きかかえるようにして下ろしてきました。
さぞかし疲れているだろうと思いきや、案に相違して、忍剣の気力は少しも衰えていませんでした。
当然のことではありましたが、その理由を知らない神官たちは「これほど不思議な怪僧がいるものか」と、舌を巻いて驚きました。

「まだ二十一日には満たぬはずだが」
忍剣は、今日の赦免が夢のようです。しかし、事情を聞くと、心から喜んでいる様子がその表情を生き生きとさせました。
一足遅れて、御岳の奥の院からここへ越えてきた人々がいました。
それは神主の長谷川右近を道案内として、忍剣の安否を気遣い、一刻を争って迎えに来た仲間たちです。
その中に伊那丸の姿を見つけた忍剣は、主君の深い思いやりを悟り、無言のうちに涙を浮かべました。
互いの無事を喜び合うと、人々はすぐに言いました。
「忍剣、すぐに京都へ急ぐのだぞ」
「えっ、都へ?」
「詳しいことはあとで若君から話があるだろうが、今日からわれわれは『甲州土着の武士』という考えを捨てることになったのだ」
「なぜだ?」
明らかに不満が忍剣の顔色に浮かびました。しかし、仲間の顔は皆、いつも以上に晴れやかに見えました。
「甲州武士などという狭い考えを捨てて、真の『神州武士』となるのだから良いではないか。われらの愛国はもはや甲斐ではない。日本だ。輝きある神州扶桑の国なのだ」
「そして?」
忍剣には仲間の言葉が急に聞こえたようで、まだ十分に納得がいっていないようです。
「仰ぐは一天の帝」
「それは誰であっても同じではないか。いまさら改めて言うことでもあるまい」
「いや、戦国の武将たちは皆それを忘れている。もう一つ忘れていることがある。それは貧しい下々の民だ。われらが味方するのはその人たちだ」
「どうして急に京都へ上ることになったのか」
「菊亭右大臣さまのお計らいで、畏れ多くも、あるご内意が下ったのだ」
「えっ、若君に?」
「しかし、それは極めて秘密のことだ」
「では、都から密使が見えたのか」
「とにかく若君は、初めておおらかな正義の天地を自由に駆け巡る時が来た、と非常にお喜びで、今後は『武田残党』の名を捨てて、われらの一味の党名を『天馬侠党』と呼ぶことに決まったのだ。今日は赦免になった貴様も加えて、天馬侠の第一声をここにあげたのだ」

熱血僧の忍剣は、聞いているうちに耳たぶを杏のように赤く染めました。
王室の衰微を嘆くことと、戦国の馬蹄に踏みつけられて顧みられない貧しい人々を哀れむ心は、常に彼らの胸に燃えていたのです。
「では、今日すぐに、これから都へ上るのか」
「多少の支度もあるから、今日というわけにはいくまいが、一刻も早く菊亭右大臣にお会いして、何かを伺った上で、密詔へのご返答を申し上げたいというのが若君のお言葉だ」
「なるほど。だが、これだけではまだ天馬侠の侠友が一人足りないぞ」
「民部殿もおられる。龍太郎、小文治、蔦之助、すべての者がそろっているが……ああ、咲耶子か」
「咲耶子もそうだが、竹童が欠けているのではないか」
「いや、嘘だ」
忍剣はやや興奮して首を振り、こう言いました。
「俺が今日までこうして少しも疲れずにいたのは、まったく、彼が苦心惨憺して毎朝食を口に入れてくれたおかげだ。どこかそこにいるに違いない、探してくれ!」
御岳の神官たちは驚きました。しかし、伊那丸や党の人々は、その話を聞いて何だか涙ぐましい気持ちになりました。
しかし、いくらあたりを尋ねても彼の姿は見当たりません。落胆していたその時、崖の細道をかき分けて、菊村宮内が、水から助け上げた二人の少年を連れて上がってきました。「おっ、いたぞ!」
思いがけず、周囲にいた一同がドッと駆け寄りました。ただ、その様子を一人だけ寂しそうに見つめている人がいました。坂東巡礼のお時です。

二

あの楢(なら)の枝から落ちたにもかかわらず、不思議なことに二人はかすり傷一つ負っていませんでした。

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