一
「気が合わない」というのは、本当に不思議なものだ。
西郡至(にしごおり いたる)は、学問も優秀で、岡崎藩の中でも剣術の腕前は指折りだった。家柄も三百石の書院番という立派なもので、見た目も人目を引くし、人付き合いが悪いわけでもない。それどころか、どちらかといえば口数が少なく、謙虚で、愛想のよい男だ。
……灰島市郎兵衛(はいじま いちろうべえ)にしても同じことだ。五百石取りの作事奉行(さくじぶぎょう=建築や土木工事の責任者)で、もう五十一歳になる。長男の伊織は近習番(きんじゅばん)という役職に就いているし、娘の幸枝も十八歳になって、そろそろお嫁に行く年頃だ。
少し頑固なところはあるけれど、若者たちからは親切なおじいさんとして評判がよかった。
そんなふうに、二人を別々に見ていれば、どちらも本当に立派な人間なのだ。ところが……この二人が一度顔を合わせると、まるで別人のように性格が変わってしまう。二人が同じ場所にいると、すぐに必ずといっていいほど、何かしらの口げんかが始まってしまうのだ。
つまり、「気が合わない」というやつである。
どちらが悪いというわけでもないのに、自然と――いや、自然とというのは変だが、実のところ極めて自然に、何かしら言い争いが始まってしまう。
それなのに、陰では二人ともお互いのことを「あいつはすごい」と認め合っているのだから、その関係はなんとも不思議なものだった。
市郎兵衛はそれについて、自分なりにこう言っていた。
「これはつまり、ヘソの問題なのだ」
「ヘソには性格がある。曲がっているのや、ゆがんでいるの、大きいのや小さいの、いろいろとある。ヘソだけは、他人とそっくり同じ形なんてものがない。人間としての能力は、一生懸命磨けば高めることができる。だが、ヘソというものは持って生まれた天然のものだから、一生変わることがない。西郡至は人間としては非常に優れたやつだが、ヘソがひねくれているから、わしとはどうしても気が合わないのだ」
そう言っていたのである。
元禄十五年七月十二日、三河地方は大嵐に見舞われた。矢矧川(やはぎがわ)の堤防が六百五十間(約1.2キロメートル)も決壊し、九千五百石もの田んぼが流されてしまった。
作事奉行の灰島市郎兵衛がすぐに命を受けて復旧工事に取りかかったのだが、そのとき事務の補佐役として、八木次郎太と西郡至の二人が選ばれた。
事務の補佐役というのは、いわば秘書のようなものだ。八木次郎太は頭の切れる若者で、いかにもその役にふさわしい。しかし、なぜ西郡至を選んだのかは、誰にも分からなかった。
市郎兵衛は日頃から影で「至はできるやつだ」と褒めているので、何か考えがあったのだろう。しかし、果たしてこの仕事がうまくいくのかどうか。周りの人たちは、心配するというよりも、「今にきっと何かが始まるぞ」と、興味津々で見守っていた。
城の北側、上里(かみざと)に灰島家の別荘がある。
市郎兵衛は八月のはじめ、その別荘を工事の仮事務所にして引っ越し、城下から通ってくる西郡至と八木次郎太の二人を助手にして、自分もそこに住み込みながら工事の指揮をとっていた。
「今に何かが始まるぞ」
という人々の期待は、外れなかった。
二十日ほどは何事もなく過ぎたが、九月に入る頃から怪しくなりだし、やがて一度、二度と衝突が始まった。
十月のはじめの、ある午後のことである。
市郎兵衛が左手に図面を持って、せかせかと部屋に入ってくるのを見た八木次郎太は、「またやるぞ」とニヤニヤしながら様子を見ていた。
案の定、市郎兵衛は、
「これは何事だ、これは!」
とどもりながら、西郡至の机のそばへ近づいていった。
至は筆を持ったまま、
「何事ですか」と振り返った。
「何事ではない! この赤字で書き込んであるのは何だ。誰がやったのだ」
「ああ、それですか。それは拙者です」
「何のためだ! 十七番堤防の石を積む数はもう決まっている。それなのに、この書き込みは石の量を半分に減らしてあるではないか」
「そこはそうする方がよいのです」
「良いか悪いかを尋ねているのではない! 誰の指図でこんな勝手なことをするのかと聞いているんだ。工事については、わしが作事奉行として細かいことまで全て調べたうえで決めている。それを何のお断りもなく、こんな指図がましいことをして!」
「お待ちください。拙者は奉行役を差し置いて、勝手なことなどいたしません」
「これが勝手なことでないのか! これが!」
二
二人の声が高くなるとすぐに、廊下の向こうからそっと、娘の幸枝が様子を見に来た。
……市郎兵衛がここへ移るのと一緒に来て、父の世話をしたり、補佐役の人たちにお茶を出したりする役目を引き受けている。ところが最近では、それよりも父と至のあいだに入って、うまく喧嘩を仲裁する役の方が忙しかった。「あなたは事情を知らないからそう言えるのです。実際に現場へ行って調べてみてください。十七番堤防は、水の流れをまともに受ける場所です。そこを必要以上に硬く固めすぎてしまうと、水の勢いは倍の力となって十八番のカーブ地点へ向かってしまい、逆にそこの土台が掘り返されてしまうことになります。これは工事のリーダーからも念を押されていたことで、拙者が現場に立ち会って調べた結果、当然の処置として訂正したまでのことです」
「そ、それならばなぜ、その、一応そのことを私に報告しないのか。それがつまり……」
「拙者は作事奉行の補佐役として、あなたに選ばれて務めているのです。工事の細かな部分については、もう少し拙者たちに任せてくださるのが当然ではないでしょうか」
「私は何も、君たちのことを信用していないとは言っていない」
「では、そうむやみに怒鳴るのはやめていただきたい」
「ほう、怒鳴ってはいかんか。私は怒鳴ることさえ許されんのか。ではこうやって、ここに手でもついて謝ればいいのか!」
いよいよ双方の「ヘソ」がむき出しになってきた。こうなると、あとは子供の喧嘩と同じだ。肝心の図面などは放り出して、ムキになってくだらない口論を始めた。
……そこへ、幸枝が足早にやってきた。
「父上さま、大変でございます!」
「ええ、やかましい!」
市郎兵衛は耳にもかけず、なおも勢いよく喚き続けている。幸枝はその二人の間へ割って入りながら言った。
「父上さま、ホオジロです。ホオジロが籠から逃げ出してしまいました!」
「……な、なんだと!」
「お庭の柿の木に留まっていますから、早く来てください!」
市郎兵衛は小鳥を飼うのが趣味で、特に最近はホオジロに夢中になっている。その大切な手飼いの鳥が逃げたと聞いて、すっかり慌てた。
「またお前は、なにか……ええ、どこだ!」
「お庭でございます!」
幸枝はすばやく父を導き、その場から走り去っていった。
「やったな」という次郎太の含み笑いを聞き、至がほっとして額の汗を拭いながら向き直ろうとすると、そこへ再び幸枝が足早に戻ってきた。
「西郡さま、先ほどは申し訳ございませんでした」
「いや、それは、拙者のほうこそ……」
「父はご存じのような気性ですから、いつもあなたさまに向かうとあのように喧嘩腰になってしまいますの。
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