知り合いではありませんが、初めて会った人だという気はしませんでした。さて、一体誰なのだろうとじっくり見つめました。
女はまた微笑んで、
「お前、あれは斑猫(はんみょう)といって、大変な毒虫なの。もういいのよ。まるで別人のように美しくなったわ。あれでは姉様が見違えるのも無理はないのだもの」
私もそうだろうと思わないわけではありませんでした。
今では確かにその通りだと疑わなくなり、おっしゃるままに頷きました。
あたりが珍しくて起き上がろうとすると、夜着の肩を長く柔らかく押さえました。
「じっとしておいで。具合が悪いのだから。落ち着いて、ね。気を静めるのだよ、いいかい」
私は逆らわずに、ただ目で答えました。
「どれ」
と言って立ったとき、のしのしと道芝を踏む音がして、つぎはぎの服をまとった老夫が、顔を真っ赤にして縁の近くに入ってきました。
「はい、これはお坊ちゃまがいらっしゃったのですね。可愛いお坊ちゃま。お前様も嬉しかろう。ははは、どれ、またいつものものを頂きましょうか」腰をななめに傾け、筧(かけひ)に顔をぴったりと押し当てて、ごっごっごっと立て続けに水を飲み干すと、ふっと息を吹きかけて空を見上げました。
「やれやれ、甘いことだな。よし、参ります」
と踵(きびす)を返そうとする老夫を、こちらから呼び止めました。
「じいや、ご苦労だが。また来ておくれ。この子を返さねばならぬから」
「あいあい」
と答えて、老夫は去っていきました。
山風が颯(さっ)と吹き下ろしてくると、あの白い鳥がまた舞い降りました。
黒い盥(たらい)の中に入って羽づくろいをし、静まり返りました。
「もう、風邪を引かないように寝させてあげよう。どれ、それなら私も」
そう言って、静かに雨戸を閉めました。
九ツ谺(ここのつだま)
やがて隣に添い寝をしてくださいました。先ほど水を浴びたせいでしょうか、私の肌は時折ぶるりと震えましたが、何の疑いもなく、その人にすがりつきました。
「あとを、あとを」と私がねだると、幼い頃の話を二つ三つ聞かせてくださいました。やがて、
「一つ谺(だま)、坊や。二つ谺、と言えるかい」
「二つ谺」
「三つ谺、四つ谺と言ってごらん」
「四つ谺」
「五つ谺。そのあとは?」
「六つ谺」
「そうそう、七つ谺」
「八つ谺」
「九つ谺――ここはね、九つ谺という場所なの。さあ、もうおとなしくして寝るんですよ」
背中に手をかけて引き寄せ、玉のように美しいその乳房をふくませてくださいました。
露に濡れた白い襟、肩のあたり、鬢(びん)の遅れ毛がはらはらと乱れている様子は、私の姉上とは随分と違います。
姉上は、乳を飲むことを決して許してくれませんでした。胸元を探ろうとすると、いつも叱られたものです。母上が亡くなってから三年が経ちます。乳の味は忘れていませんでしたが、いま口に含んだものは、母上のものとは似ていませんでした。
滴るような乳房は、ただ淡雪のように口の中で消えてしまい、舌に触れるものもなく、ただ冷たい唾液だけが溢れ出てきました。
軽く背中をさすられて、私が我に返ると、屋根の棟や天井の上で、凄まじい音がしてしばらく鳴り止みません。
ここでつむじ風が吹いているのか、柱が動く恐ろしさに震えて抱きつくと、その人は抱きしめながら、
「あれ、お客さんが来ているのだから、もう今夜は堪忍しておくれよ。いけません」
と、キッと叱るように言ったので、すぐに静まりました。
「恐くはないよ。鼠(ねずみ)だもの」
何気なくそう言いましたが、私はなおもその響きの中に、何かが叫ぶ声が残っているようで震えていました。
美しい人は半分起き上がって、そこにあった蒔絵(まきえ)の手箱の中から、一口の守り刀を取り出し、鞘(さや)に入ったまま引き寄せると、雄々しい声で、
「何が来てももう恐くはない、安心してお寝よ」
と言いました。頼もしい姿だと思い、ひたとその胸に顔をつけました。そうして、ふと目が覚めました。
残った灯火は暗く、床柱が黒く艶やかに光るあたりには、薄い紫の色が籠(こ)もり、香の残り香が漂っています。
枕から頭を上げました。顔を寄せ合い、ゆるく閉じた目の睫毛(まつげ)を数えられるほど、すやすやと寝入っていらっしゃいました。
話しかけようかと思いましたが、ためらってしばらく見つめていました。しかし、淋しさに耐えかねて、そっとその唇に指先を触れてみました。
指は空を切って唇には届きません。あまりに深く眠っていらっしゃるのです。
鼻をつまもうか、目を押さえようかと思い、またじっくりと見つめました。
ふとその鼻の頭を狙って手を触れたのですが、空をなでるだけで、美しい人の雛人形のような顔の筋は、ひとつも緩みませんでした。
またその目のふちを押してみましたが、水晶の中に閉じ込められたものの形を掴もうとするようでした。私の顔は、その遅れ毛の端に頬がなでられるほど近くにあるのに、どうしても指先はその顔に届きません。果ては心を入れて、乳の下に顔を伏せ、強く額で押し当ててみましたが、顔にはただ温かい霞がまとわりつくような、のどかでふわふわとした感触があるだけでした。薄い紙一枚の支えもなく、押し当てた額はすっと下に落ち沈んでしまいました。気がつくと、美しい人の胸は元の通り傍らに仰向けになっており、私の鼻は、いたずらに自分の肌で温まった柔らかな布団に埋もれていました。おかしなことです。
渡船(わたし)
夢か幻かも分からないまま、心を鎮めて目を凝らして見ました。片手は私に枕をさせていた元のまま、柔らかく力なく布団の上に垂れています。
片手を胸に当てて、その白くたおやかな五本の指を開き、黄金の目貫(めぬき)がキラキラと美しく輝く鞘の、小さな守り刀をしっかりと、持つともなく乳のあたりに落として据えています。鼻筋の通った顔が仰向けになり、唇は何かを語りかけているようで、閉じた目は微笑んでいるようです。髪はさらさらとして枕に乱れかかっています。それも違わないのに、胸に剣をさえ乗せているので、亡き母上の最後の姿と紛うべくもありません。ああ、この人も死んでしまったのかと思うと恐ろしくなり、早く取り除こうと、胸にある守り刀に手をかけて、すっと引きました。切っ先が緩んで、青い光が目を射たかと思うと、どのようなはずみか、血汐(ちしお)がさっとほとばしりました。
目がくらみました。
したしたと流れ滲むのを、ああ大変だと両の拳でしっかりと押さえましたが、留まることなく、とうとうと音を立てるばかりに淋漓(りんり)と流れ伝わり、血汐が私の衣を真っ赤に染め上げました。あの美しい人は、まるで石像のように静まり返ったまま、みぞおちのあたりから血に染まり、半身をすっかり赤く染め上げてしまいました。
私が押さえていた手には血の色はついていません。灯火に透かしてみると、指の間の紅い色は、人の血の跡などではなく、不思議に思いながら撫でてみた手のひらにも血はついていませんでした。よくよく見定めてみると、それは着ていた夜着の合わせ目がはだけて、すずしげな絹を透かして見えている、その肌にまとっていた紅色の布地だったのでした。
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