一
羊三は山を眺めることを目的に、その山全体を管理している兄の淳二と一緒にここへやって来た。けれど、毎日の決まった仕事があったりして、すぐ鼻の先にある山の陰からモクモクと立ち昇る煙を毎日見ながらも、ついその近くまで行くのがおっくうで仕方がなかった。
「山にはこちらから料理人が行っていますから、家よりもずっとおいしいご馳走がありますよ」
義姉は家を出るとき、そんなことを言っていた。その朝、今は亡き土地の画家の描いた『雨の牡丹』という掛け軸を、羊三に譲ってくれた。
東京の二流どころの画家のものと二つ並べて、羊三に好きな方を選ばせたのだが、その絵の気品には雲泥の差があった。
「牡丹をいただきます。これは立派なものです」
羊三は一目見てすぐに答えた。
「そうだろう。その男の絵は、宮内省にも納められているんだ」
淳二は笑いながら言った。
羊三は母の法事を済ませてからも、四、五日は兄の家に厄介になっていた。男三兄弟のうち長兄が昨年亡くなってからというもの、二人の気持ちは以前よりどこか融け合ってきたように思える。
「私は子どもも何にもいないから、明日死んだってかまわないが、君は長生きしてくれなくちゃ困る」
そんな気持ちはあっても、口に出して愛想を言ったことのなかった淳二が、最近ではそんなことを言うようになった。その掛け軸も、羊三が近頃やっと自分のボロ家を手に入れることができたという喜びを祝ってのことだろう。
淳二は駅へ立つとき、タバコ好きな弟のために葉巻を用意し、自分で切り口を入れて火をつけてくれたりもした。
淳二のために鉱山の持ち主――といっても旧主筋にあたるのだが――が作ってくれた、広々とした二間続きの静かな部屋で、羊三は原稿用紙を広げた。
そこにある窓からは事務所の一部がすぐ右手に見えた。前も左も山のふもとの斜面になっていて、その斜面にある道は、技師たちが社宅へ帰るための通路らしい。夕方になると、若い洋服姿の男たちがその道を帰っていくのが見えた。
淳二は朝早く起きると、部屋の外の廊下の端にある棚に置かれた二つの箱の中で、六、七羽のツグミと二羽の青い鳥に餌をやるのが出勤前の仕事だった。
それは十月の中頃からかすみ網を張り、昨夜泊まっていた谷間を朝早く出発して、長い旅を急ごうとしているツグミの種類を呼び寄せるための「おとり」で、亡き父から伝わった淳二の趣味の一つだった。
この土地の暇な紳士たちは、昔からこういったことに深い興味を持っていて、網や道具を作るのにも非常に長けていた。おとりの選び方や飼い方にも、特殊な目と優れた技術を持っていたのだ。
羊三も幼い頃から食べ慣れていたその鳥が、どこの国から手に入れたものよりも美味いことを知っていた。もちろんそれは、与えるエサのおかげだった。
兄は羊三と違って、ふっくらと立派な体格をしていた。その上、顔立ちが日蓮聖人に似ていると言って、おどけたお寺の住職が、この前の法要のときにもからかっていた。その日蓮のような顔には深い大ジワが刻まれ、ピンと伸びた口ひげは羊三よりも一段と白くなっていたけれど、健康は少しも衰えていなかった。そして、鳥の世話をする手つきは驚くほどマメだった。
「大変ですね、これだけの鳥の世話をするのは」
羊三はそばへ来て、不思議そうに眺めながらそう言った。兄が鳥の世話をしている間、そういったことには全く興味のない弟に気を遣っているのを感じながら、お世辞のつもりで言ったのだ。
「なあに、このために朝起きができるんだからな」
淳二は短く答えると、練り合わせた青っぽいペースト状の餌を、一つひとつの籠に差し入れていった。
ツグミは二種類いた。胸毛に斑点のある黒っぽいものと、美しいヒヨドリ色のものだ。前者は勇ましく、始終籠の中を忙しく動き回って、空や森に憧れるように明るい方へ顔を上げていた。だが後者は、人の影を見ると奥へ引っ込んで大人しくしていた。
「この大人しい方の方が、品がありますね」
「そうだな。味もその方がいいとも言うな」
「私も動物は犬も猫も嫌いですが、小鳥は好きです。小鳥や草花がなかったら、ずいぶん寂しいと思う」
「子どもに小鳥を飼わせたらどうだ?」
「それも考えたことはありましたが、今時の子どもはなかなか忙しいですからね。私たちの時代とまるで違いますから……」
淳二は「ふん」と笑った。そして棚の隅に置いてあった小さい木片の束をほどいて、小刀で割りながら、中から虫を出して鳥に与えていた。これから鳥を働かせる時期になるので、精力をつけるためだった。
羊三はエサの作り方なども聞いてみたが、兄には兄独自の工夫があるらしかった。鳥の飼い方や、そこから推し量った人間の健康法などを聞いていると、兄は立派な科学者だという気がしてきた。
やがて朝の仕事を終えると、淳二は部屋へ戻ってきて、羊三と一緒に朝食の膳に向かった。
「どうした、あの連中は……」
淳二は給仕をしている女に尋ねた。山ではちょうど、工夫(こうふ)たちが賃金の値上げを求めて立ち上がった騒動のあとでした。羊三は東京を出る前から新聞記事でそのことを知っていましたが、こちらへ着いた頃には、騒ぎもだいたい収まっていました。
最近の経済不況の影響で、銅の値段が下がっているのはもちろんのこと、あらゆる事業が破綻寸前という状況で、この山の経営者の立場も非常に苦しいものになっていたのです。
羊三は町へ来てから、いろいろな噂を耳にしました。
山からは毎日煙が立ち上っていましたが、それもようやく人々の心が落ち着いてきた最近のことでした。
賃上げ運動にたずさわった連中は、それを良いきっかけとして、かなりの人数がクビにされていました。
女中が「ええ」と笑いながら言いました。
「今夜また演説があるそうですよ」
「そうか。それで、引き揚げていくのかい?」
淳二は苦笑していましたが、羊三に向かってこう言いました。
「東京からAという人物が応援に来ているんだが、来たときはものすごい勢いで歓迎されたものだよ。ただ、いかんせん時期が悪すぎる」
「それは一つ、今夜の演説を聞いてみようかな。あなたは、そのAという人に会ったことがありますか?」
「今回はまだ会っていない。いつもなら私が対応するんだが、今回は若い連中の手並みを拝見しようと思って、あえて傍観していたんだ。けれど、どちらにしてもこちらの事情では要求に応じかねる。ちょうど人減らしをしようと思っていた際だったから、中心になっていた連中だけ辞めさせてしまったんだ」
口の重い淳二のことですから、それ以上詳しい説明はしませんでした。しかし、これまで幾度も同じような争議に出くわし、そのたびにさまざまな人々と会い、事件の円満解決にも努力してきたので、時代の流れというものはほぼ頭の中に染み込んでいるようでした。
「辞めさせられた連中はどうなるんですかね」
「この近くの者は、帰って百姓をするものもあるが、今回やられたのは旅のものが多いから、いずれどこかへ立っていくだろう。
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