初級翻訳・絵のない絵本 第10話

アンデルセン ハンス・クリスチャン

この男は美しい若い妻のことでも考えていたのでしょうか? 毛皮と高価な肩掛けで飾られたラクダが、この男の妻を、美しい花嫁を乗せて、町の城壁のまわりを歩いたのは、たった二日前のことだったのです。
太鼓や袋笛が鳴りわたりました。
女たちは歌いました。
そしてラクダのまわりには、喜びの砲声が鳴りひびきました。
花婿はいちばんたくさん、いちばん強く鉄砲を打ちました。
そしていまは――いまその男は、隊商といっしょに砂漠を通って行くのです。
わたしは幾晩も隊商の後について行きました。
そして、発育の悪いシュロの木にかこまれた泉のほとりで、この人たちが休むのを見ました。
人々は倒れたラクダの胸にナイフを突きさして、その肉を火であぶりました。
わたしの光は燃えている砂を冷やしました。
またわたしの光は、大きな砂海の中の死んだ島ともいうべき黒い岩の塊りを人々に見せてやりました。
この人たちは、人の通ったことのない道でも敵の種族に出会いませんでした。
嵐も起りませんでした。
旅行く人々を死にたやす砂柱も、この隊商の上にはまき起りませんでした。
家では、美しい妻が夫や父のために祈っていました。
『あの人たちは死んだのでしょうか?』と、わたしの金色の半月にむかって、美しい妻はたずねました。
『あの人たちは死んだのでしょうか?』と、わたしのこうこうと輝く月の輪にむかってたずねました。
いまはもう、砂漠は隊商の後になりました。
今夜は高いシュロの木の下にすわっています。
そこでは鶴が長い翼をひろげて飛びまわり、ペリカン鳥はミモザの枝から人々を見おろしています。
生い茂った草藪が、象の重たい足に踏みつけられています。
黒人の群れがずっと奥地にある市場から帰ってきます。黒い髪の毛のまわりに銅のボタンを飾り、藍色のスカートをはいた女たちが、重い荷を積んだ牡牛を追い立てています。その荷物の上には、まだ赤ん坊の黒い子供が眠っていました。ひとりの黒人の男は、買ってきたばかりのライオンの子を綱で引いています。こうした人たちが、隊商(キャラバン)に近づいていくのです。

あの若い商人は身動きひとつせず、じっと黙って座っています。心の中にあるのは、故郷に残した美しい妻のことばかり。この黒人の国にいるというのに、砂漠のかなたにある、匂い高くまっ白な花のことばかりを夢見ているのです。商人はふっと頭を上げました――!」

そのとき、ひとつの雲が月を隠してしまいました。それからまた、もうひとつの雲がかかりました。わたしはその晩、それ以上何も聞くことができませんでした。

第二十二夜

「わたしは、ある小さな女の子が泣いているのを見ました」と、月が言いました。
「その子は、世の中があまりに意地悪なことに泣いていたのです。この女の子は、とても素敵なお人形をもらいました。それは、ほんとうにかわいくて、きれいなお人形でした。もちろん、この世の中で悲しい目にあうように生まれてきたわけではありません。ところが、この小さな女の子の兄さんである、大きな男の子たちがやってきて、お人形をひったくると、庭の高い木の上に乗せて、そのまま逃げて行ってしまったのです。

小さな女の子はお人形のところまで登ることもできませんし、おろしてあげることもできません。それで泣いていたのです。お人形も、たしかにいっしょに泣いていました。両腕を木の緑の枝のあいだからのばして、いかにも悲しそうな様子をしていたのですもの。
『そうだわ、これがママのよくおっしゃる、世の中の災難というものなんだわ。ああ、かわいそうなお人形!』

あたりはもう、薄暗くなりはじめました。もうすぐ夜になってしまいます。お人形は今夜一晩じゅう、外の木の上でひとりぼっちでいなければならないのでしょうか? いやいや、そんなことは、女の子にとっては想像するだけでもたまらないことでした。
『あたし、あんたのそばにいてあげるわね』と、女の子は言いました。
といっても、そんな勇気があるわけではありません。早くも、高いとんがり帽子をかぶった小さな小人の妖魔が、茂みの中からのぞいているのがはっきりと見えるような気がするのです。おまけに、向こうの暗い道では、ひょろ長い幽霊が踊りを踊っていて、それがだんだんこちらへ近づいてくるではありませんか。そして両手を、お人形の乗っている木のほうへ伸ばして、笑ったり指差したりしているのです。

ああ、小さな女の子は怖くて怖くてたまりません。
『でも、なんにも悪いことをしていなければ』と、女の子は考えてみました。『悪ものだって、なんにもすることなんかできやしないわ。でもあたし、何か悪いことしたかしら?』
そうして、いろいろと思い出しているうちに、
『ああ、そうだっけ』と、女の子は言いました。『あたし、足に赤いきれをつけていた、かわいそうなアヒルを笑ったことがあったわ。あんなおかしな格好をして足をひきずるんですもの、あたし笑っちゃったんだわ。だけど、生き物を笑うなんていけないことだわね』

こう言いながら、女の子はお人形のほうを見上げました。
『あんた、生き物を笑ったことがある?』と聞きました。
すると、お人形は頭を振ったように見えました」

第二十三夜

「わたしはチロルを見下ろしました」と、月は話しました。
「わたしは黒々としたもみの木に、くっきりとした長い影を岩の上へ投げかけさせました。わたしは幼子イエスを肩に乗せた聖クリストファの絵を眺めました。その絵は、このあたりの家々の壁に、地面から屋根まで届くくらい大きく描かれていました。聖フロリアンは燃え盛っている家に水を注いでいました。キリストは血まみれになって、道端の十字架にかかっていました。

これは新しい時代の人々にとっては古い絵かもしれません。でもわたしは、それらが建てられるのを見てきました。ひとつ、またひとつと、描かれるのを見てきたのです。山腹の高いところに、ちょうどツバメの巣のように、尼僧院がひとつぽつんと立っています。ふたりの姉妹が上の塔の中に立って、鐘を鳴らしていました。ふたりともまだ年若く、そのためふたりの眼は山々を越えて、はるかかなたの世間のほうへ飛んでいきました。

ちょうどそのとき、旅行馬車が一台、下の国道を走っていました。馬車の角笛が鳴り響きました。すると、あわれな尼僧たちは同じ思いにかられて、眼を下の馬車にじっと注ぎました。若い妹の眼には、涙がたまっていました。――やがて、角笛の響きはだんだん弱くなっていきました。そしてその途切れ途切れの音を、尼僧院の鐘の音がかき消してしまいました――」

第二十四夜

 月が話したことを聞いてください。
「いまからもう何年も前のことです。ここコペンハーゲンで、私はあるみすぼらしい部屋の中を窓越しにのぞき込んだことがあります。
父親と母親は眠っていましたが、小さい息子はまだ起きていました。
そのとき、寝台のまわりの花模様のついたサラサのカーテンが動き、そこから子供の顔が外をのぞくのが見えました。
私は最初、その子はボルンホルム製の部屋時計を見ているのだろうと思いました。
その時計は赤や緑でたいへんきれいに塗られていました。

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