この世にはさまざまな汚いものや見苦しいもの、病気や苦しみがあるけれど、それにもかかわらず、この世は美しく人間はいいものだということを、その笛の音は聞く人にしみじみと感じさせました。
武士は、自分が探している仇敵が笛の名人であったということを、まるで忘れたかのように聞き惚れていました。藪の陰に小さな家があり、そこから笛の音が流れ出していたのです。垣根の外からこっそりと中をのぞいてみると、家の中にはまだ明かりがついておらず、縁側のすのこの上で武士のような男が、一心不乱に笛を吹いていました。
武士はすぐに、自分の仇敵が笛の名人であることを思い出しました。
そして、今まさに無心に笛を吹いている男こそが、探し求めていた仇敵に違いないと確信しました。
これが、十年間ずっと探し続けてきた仇敵なのか。
武士は不思議な気持ちになりました。
昨日までは、見つけ出しさえすれば有無を言わせず斬り捨ててやろうと、歯ぎしりをするほど燃え上がっていたあの激しい憎しみが、今、目の前に仇敵がいるというのに、少しも湧き上がってこないのです。
しかし、討たねばなりません。
それが武士としての義務だからです。
武士は、いつでも刀を抜けるように身構えました。
道に迷った旅人のふりをして、武士は庭へと入っていきました。
「どなたですか」
相手は笛を吹くのをやめて尋ねました。
「道に迷って困り果ててしまいました。都へ向かう者です。疲れましたので、少し休ませていただけないでしょうか」
と武士は言いました。
「さあ、どうぞ」
笛吹の男はそう言って、少し横にずれて場所を空けてくれました。
武士はそこに腰を下ろすと、
「見事な腕前でございました」
と相手の笛のうまさを褒めました。
「いいえ、未熟者でございます」
相手は恥ずかしそうに答えました。
二人はしばらくの間、黙り込んでいました。隙を見て斬ろうと武士は考えていました。すると笛吹の男は、目を細めて外の方を見ながら、
「あそこに、ぼうっと白く光っているのは何でしょうか」
と尋ねました。
武士はそちらを見ました。家の前から向こう側へと高くなっている道が、月の光に照らされて白く浮かび上がっていました。
「目が悪いのですか」
武士は驚いて聞き返しました。
「はい、もう長い間患っております。いろいろな医者の手当も受けましたが、悪くなるばかりです。いずれ完全に目が見えなくなるのも、そう遠くはないでしょう」
笛吹の男がうつむき加減にしている顔を見ながら、武士はかわいそうだなと思いました。
「誰も世話をしてくれる人はいないのですか」
と武士は聞きました。
「おりません。私の方からお断りしたのです。これでいいのです。私は十年も昔、人様に言えない悪いことをしましたので、その報いはすべて受けねばなりませんから」
私の兄を殺したことを言っているのだ、と武士は思いました。
「あなたも笛の音がお好きなようですね。下手ではございますが、もう少しお聞かせしましょう。今吹いていた曲が終わるまで」
そう言って、笛吹の男は話を切り替えました。
それから笛の音は再び、この世やそこに住む人々の美しさを歌い始めました。
斬るなら今だ、今が一番良いチャンスだと思い、武士は刀の柄をぎゅっと握りしめました。
笛吹は無心に笛を吹き続けていました。
月の光がよく磨かれた横笛の上に細く差し込み、細かく震えていました。
何度も斬りつけようと焦りましたが、武士はどうしても刀を抜くことができませんでした。
武士は、自分の情けない心に気づきました。
シラミは復讐をするために、一年間も何も食べずに生き延びていた。
自分もまた復讐をするために、今この無心に笛を吹いている、心の美しい、目の不自由な人を殺そうとしている。
なんて情けないことだろう。
自分とシラミと、一体何の違いがあるというのだろう。
その上、自分には本当にこの人を斬る理由があるのだろうか。
なるほど、兄は殺された。
しかし、兄にも悪い点はなかっただろうか。
殿様の寵愛を奪われたからといって、相手に斬りつけたのは兄の間違いではなかったのか。
武士は、治療代をタダにしてくれた時の医者の言葉を思い出しました。
――私はあなたを救ってあげました。あなたもあなたの仇敵を救ってあげなさい……。
そうだ、私はこの人を斬るのをやめよう、と武士は心の中で決心しました。
そして、怪しまれないようにそっと庭から立ち去りました。
月の光が落ちる白い細道を登りながら、武士は笛の音を聞いていました。
笛の音は今もなお、人の世の美しさを歌い、この世では誰もが愛し合わねばならないと語りかけていました。
自分は良いことをした、と武士は思いました。
すると、自然と涙がこぼれてきました。
その時から、武士は生きる目的を変えなければなりませんでした。
もう自分には探し求める相手がいません。
国へ帰っても、仇敵を討たなかった自分は仕官できないでしょう。
これからどうやって生きていこうかと、しばらくの間迷いましたが、彼のような身寄りも家もない人がたどる道に従い、僧侶になりました。
ちょうどその頃、都の近くで橋が流され、人々が困り果てていることを知った彼は、その橋をかける費用を集めるために、人々に喜捨を請い歩きました。
仇敵を探し出すためにさまよったように、彼は人々の難儀を救う費用を集めるため、あちらこちらをさまよい歩いたのです。
年老いたお坊さんの話は、これで終わりでした。
栄蔵はその話に深く引き込まれていたので、話が終わってもしばらくの間、夢見るような目で、お坊さんの前に立ち尽くしていました。栄蔵の目には、まだ青い月夜の光景が見えており、その耳には、人の世の美しさを歌う横笛の音が聞こえていました。
仇敵を討つはずだった人が、討つのをやめて仇敵の家を去りながら、自分は良いことをしたと思って涙をこぼした、という話を聞いたとき、栄蔵もついもらい泣きをしてしまいました。
その涙が、まだ彼の目から乾いてはいませんでした。
その人は、本当に何という良いことをしたのでしょう。
栄蔵はその人の行いに深く感動させられたので、もし今目の前にその人がいるなら、その人について行きたいと思いました。
お寺の門から外に出ると、空には夕暮れのバラ色が匂い立っていました。
本当に、この世は美しいと栄蔵は思いました。
すると、連れの金ちゃんが、
「面白かったね。
でも、饅頭の方がいいよ」
と言いました。
栄蔵は黙っていました。
栄蔵には、饅頭を十個もらうよりも、あの話を聞けたことの方がずっと良かったと思えたのです。
四 鰈(かれい)
栄蔵には、妙な癖が一つありました。
お父さんに叱られたりすると、返事をしないで、上目遣いに相手をじっと見つめてしまうのです。
それはちょっとした、変な癖でした。
しかし、どんな癖にもよく考えてみると、たいてい何か理由があるものです。
栄蔵はおとなしく、体も丈夫ではありませんでした。
子供たちはよく栄蔵を仲間外れにしました。
そんなことが重なるうちに、栄蔵は上目遣いをする癖がついてしまったのでしょう。
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