初級翻訳・良寛物語 手毬と鉢の子 第26話

新美 南吉

それに比べてわしは、一体何をし遂げただろうか。なるほど、わしは多くの書を読み、かなり苦しい修行も積んだ。人間や世界がどういうものか、大体わかることもできた。しかし、わしがこれまでやってきたことは、このまま何もしないで、のらくらと生きていくだけなら、何の価値があるだろうか。世の中の人々に働きかけて、苦しんでいる人を救い、悲しんでいる人を慰めてやらないならば、わしは今まで意味のないことをしてきたのではないか。

――良寛、お前は何のために父母を捨てたのだ。何のために故郷を離れたのだ――と、良寛さんは自分を責めました。
――よし、もう一度長崎へ行こう。もう一度船乗りに頼んでみよう。是が非でも連れて行ってくれと、袖にすがって頼んでみよう。
良寛さんはそう決心しました。

「わしは、もうここで降ろしてもらいます。」
と良寛さんは言って降りました。

「どうなさいました?」
牛飼いは不思議そうな顔をして良寛さんを見ました。

「わしは、もう一度長崎へ戻ります。ちょっと考えついたことがあってね。」

「そうですか。」
牛飼いは、良寛さんの心の中にどんな決意があるのかは知りませんでした。何か忘れ物でもしたのだろうくらいに思っていたので、引き留めもしませんでした。良寛さんは弁当のお礼を言うと、牛飼いたちと別れました。そして半ば走るような勢いで、今来た道をひき返しました。

秋は陽が落ちるのが早いものです。良寛さんが長崎の街と湾を見下ろす丘の上までたどり着いたときには、空にわずかに夕映えが残っているだけで、海には黒い夕闇が染み込んでくる時間でした。良寛さんは街の方へ降りていこうとしました。しかし、その足は止まってしまいました。

良寛さんの目は、出島の先を通って、今まさに長崎の港を出ていく一艘の帆船に釘付けになりました。その船に見覚えがありました。朝、良寛さんが「乗せて行ってくれ」と頼んだ、清の貿易船でした。せっかくもう一度頼もうと思って、ここまで息もつかずに駆けつけてきたのに、船はもう出ていくではありませんか。

――良寛さんは絶望に捕らえられ、その重さに耐えられないかのように、草の上に崩れ落ちました。
「おーい、待て!」と叫んでみたかった。しかし、それが何になるでしょう。たとえ良寛さんの声が船乗りたちの耳に届いたとしても、どうして彼らが船を返す理由があるでしょうか。良寛さんは草をむしり、それを噛みちぎって悔しがりました。

――わしの最後の希望が……。――わしの一切を賭けた、たった一筋の綱が、今切れてしまった。
船はだんだんと小さくなっていった。
それは逃げていき、二度と帰っては来ない希望の姿のように、良寛さんの目には映った。
「それでは、あんまりだ。あんまりではないか」
と良寛さんは口の中でつぶやいた。
言いようもなく口惜しかった。
涙がついと頬を伝った。
船が見えなくなると、空の夕映えも消えた。
青暗い夕闇ばかりの世界になった。
良寛さんはいつまでも座ったまま動かなかった。
これから先、どうしていいのか見当もつかなかった。
どれだけの時間がそのまま過ぎたか、ふと良寛さんは耳をそばだてた。
何かが聞こえてくるのである。
それは丘の下の夕もやの中から、かすかにのぼってきて良寛さんの耳にとまった。
清らかで美しい物音。
まるで春の陽ざしの中をとんでくる蜜蜂の羽音のようだった。
その小さな物音は、小さな生き物のようだった。
人の心に安らぎと幸福を分け与えながら、あちらこちらと飛んでゆく。
しばらく聴いていて、良寛さんは、ようやくそれが、異人たちが住んでいる出島の寺から鳴り響く、夕べの鐘の音であることがわかった。
やがてそれは鳴りやんだ。
鳴りやんだとき、良寛さんは、心の中に今までとは別の希望が、小さく頭をもたげてくるのを感じた。
まるで今聞いた鐘の音のひとつが、良寛さんの心にとまって、そこに芽を吹いたかのようだった。

――わしは馬鹿だった。
わしは分不相応なことを望んでいたのだ。
考えてもみるがいい。
わしは名主の仕事でさえ満足につとめられないような、能なしではないか。
そんな者が、清へ渡って偉い坊主になろうだとか、人々に説いてまわって大きな病院を建てようなどと、大それたことを考えたのが間違いのもとだったのだ。
――牛飼いは、自分の身の丈に合った望みを抱いていた。
そしてそれをなし遂げた。
わしも、わしにできる望みを持とう。
そしてそれを、やり遂げよう。
それができたら、さらに次の望みを持つことにしよう。
良寛さんは杖と鉢を拾って立ち上がった。

十二 ふたたび故郷へ

長崎から清へ渡ることに失敗した良寛さんは、また備中玉島の円通寺に帰っていた。
そして以前と同じように、座禅をしたり托鉢をしたりして日を送っていた。
師である国仙和尚の目には、この頃の良寛さんが、以前とは変わってきたことがわかった。
以前は、何かあると一心に思いふけって、穏やかな目にどこか怪しく燃えるような光が宿ることがあったが、もうそういったことは全くなくなった。
毎日、まるで馬鹿のように、もくもくと仕事をし、勉強をしていた。
良寛もだんだんと人間ができてきた、本当の自分を知るようになった、と国仙和尚は思った。

ある日、国仙和尚は、良寛さんのことを詩にうたって良寛さんに見せた。
そこには、「良寛は馬鹿者のように見えていて、なかなか心が寛大である。少しもこせつかずに、運命のままに身をまかせている。いつどんなところででも居眠りができるくらい、心には余裕と落ち着きがある」という意味のことがうたわれてあった。
こうして良寛さんは、師にも褒められるほど修養を積み、真実の道の奥深くへと入っていったのである。

数年の歳月が、また円通寺で過ぎた。
良寛さんは四十四歳になった。
とある日、思いもかけないことが訪れてきた。
京都からの飛脚が持ってきた一通の手紙である。
飛脚は良寛さんの手に手紙を渡して去った。
お父さんの以南さんが京都に出ていることを前から知っていた良寛さんは、お父さんからの便りではないかと思い開いてみた。
はじめに字を見て、お父さんの字とは違っていることがわかった。
それは見たことのない人の文字であった。
良寛さんは、最初から読んでいった。
水のように静かな態度で、最後まで読み終えた。
読み終えると、しばらく開かれた手紙を、手ぬぐいのように両手の上に広げたままぼんやりしていたが、やがて巻き返した。

良寛さんは、大した持ち物といってなかった。
身の回りのものをすっかりまとめると、小さな風呂敷包みがひとつできるくらいであった。
良寛さんはそれを作った。
その風呂敷包みを持って、国仙和尚のところへ行った。
「また雲水(修行の旅)に出かけるのかい」
と、国仙和尚は良寛さんの手の風呂敷包みを見て言った。
「はい」
と良寛さんは答えた。
「今度はどっちの方面へゆく。また九州か」
「いいえ。今度は高野山、京都を経て、生まれ故郷へ参るつもりです」
「ほほう。それじゃあ、また長くかかるのう。まあ、ゆっくりいってくるといい。来年の冬頃までには帰ってこい。

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