どうしても出席しなければならないパーティーなどには、姉の一人が魔法瓶に蒸留水を詰めてつき従うことで有名でした。
学習院の女子部の先生になってからも、嫌なことや難しいことはすべて母親や姉たちが引き受けて片づけてしまい、山川は家庭と女性たちの陰に隠れ、自分のペースで、やりたいことだけをして暮らしていたのです。
顔を一つ洗うにしても、歯磨き粉はデュマレの「コルゲート」の半練りタイプ、石鹸はモリニューの「ヴェロ」と決まっており、それらが東京で手に入らないときは、姉がわざわざ神戸のクーン・アンド・コモルまで買いに出かけたほどでした。
軍隊の教練など、思いもよらないことです。
短期現役の勤務期間は、親戚の軍医監に手を回してもらい、病院のベッドで本を読んで過ごすことで、一日も実際の業務につくことなく予備少尉に任官するという特例を作らせました。
戦争や軍隊にとって、これほど有害で役に立たない男も珍しく、山川にとっても、およそ戦争というものほど自分の性格に合わないものはありませんでした。
女子部の生徒たちの中でも、特にお山川をひいきにしていた十人ほどが、花束の代わりに紙で作った小さな国旗を持って営門に並びましたが、健気やらおかしいやらで、涙をにじませたり忍び笑いをしたりして、もう大変でした。
「山川先生、一度雨に打たれたら、溶けてなくなってしまうんじゃないかしら」
生徒の一人が泣き笑いをしながら、そんな感想をもらすほどでした。
母親と姉たちの庇護がなければ、一日たりとも生きられない。
顔を洗う水が足の甲にちょっと飛び散っただけでもすぐ風邪をひいてしまうような、まるでオジギソウのように繊細な山川が、荒々しい外国の厳しい気候に十日も続けてさらされたなら、敵の弾丸を待つまでもなく、肺炎にかかるなどして、あっさりとダメになってしまうだろう。
冷たい時雨(しぐれ)が降る朝の寒さに怯えて鳥肌を立てている、目鼻立ちだけはやけに美しい山川の細い青白い顔を見ていると、「この男は、もう二度と生きて帰ってくることはまい」という冷酷な予感がわき上がり、彼が人並みの挨拶をして営庭に入っていったその瞬間を最後に、みんなの心の中で、山川の思い出は一度死んでしまったのです。
生きている山川にまた会えるなどと、無駄な期待を抱いていた者は一人もいませんでした。
そんな場所で、あんなふうに唐突に山川と鉢合わせをしたのだから、伊沢の奥さんでなくとも、誰もが「あっ!」と驚いて一歩後ろへ飛び下がったはずです。
彼女が感じた「いやな感じ」というのも、まったくもっともなことでした。
山川の家に電話をかけてみると「二時間も前に家を出た」と言うのですが、いつ来るというあてもないので待ちくたびれ始めたころ、九時近くになってようやく、山川がツルリとした涼しい顔をしてあらわれたのです。
どこに座ればいいのかと、恥ずかしそうに微笑みながら部屋の中を見回しているので、すっかり待ちくたびれて腹を立てていた須田が、
「人に招かれておきながら、いまごろノコノコやってくるような不心得者は、お許しが出るまで末席でじっと反省していろ!」
と、いきなり言い放ちました。
さすがは育ちの良さからか、山川は「すまなかったね」と悪びれる様子もなく、一番端っこの席にちょこんと座りながら、食卓の上にあるクリスタルのカラフェ(酒注ぎ)を見て、こう言いました。
「ワインだね。
一杯もらってもいいかしら」
「赤ん坊が酒を飲むだって? あまりみんなを驚かせるなよ」
「軍隊で覚えたんだ……母や姉たちには、内緒なんだけどね」
山川はグラスをクルクルと回し、カットガラスの面をきらめかせながら、まるで美しい宝石でも眺めるようにワインの色に見入っていましたが、ふっと香りを嗅いでから口に含むと、
「シャトー・ラローズだね。
なかなかいけるよ」
と、まるで通人ぶった口ぶりでうなずいてみせました。
「こいつは、すっかり一流の飲み方を知っているな。
いったいどこで覚えたんだ。
まさか、ヨーロッパへ戦争をしに行ったわけじゃあるまいし。
全く不思議なやつだな」
と岩城がいった。
笠原は山川の顔をしげしげと見つめながら、
「山川は六年も戦争に行っていたっていうのに、ちっとも変わっていないじゃないか。
どこにも傷つけられたような跡がないなんて、信じられないな」
とあきれたように言いました。
水にさらした絹のようにきめの細かい白い皮膚は、少しも日焼けしておらず、華奢な手は以前と変わらず敏感そうで、すらりとした形を保っています。
目の輝きもそのまま、声もそのまま。
戦争の苦労はさておき、長い年月による風化をまったく受けずに、どうして昔のままの姿を保ち続けることができたのか、それがまず第一の驚きでした。「おれの友達なんだが、現地へ着くが早いか、敵前逃亡をして、終戦後、軍法会議と戦時特別刑法が廃止になるのを見さだめてから、悠々とあらわれてきたのがいる……兵科はなんだったんだ、そんな生っ白い顔でいられるというのは」
「高射砲隊……ひどい戦闘もしたが、ともかく運がよかった。
終戦は、ニューギニアのカイマナだったが、あまり奥へ逃げこんじゃって、二年も終戦を知らなかった。
陽の目も見えない大樹林の中で、食べるものもなくて……」
「それはたいへんだったといいたいところだが、どう見ても、お前の面は、美食して、安楽に暮していた面だよ」
「嗜好の善悪とは、緯度の差でしかない、と誰かがいった。
見方を変えれば、僕は、すごい美食をしていたといえる」
「なんだい、緯度の差ってのは」
「アフリカやアラビヤでは、猿は最上の美食だということだが、僕らは、オランウータンばかり食っていた。
食い残した猿の腕や掌が、その辺に投げだしてあると、人肉でも嗜食したような罪感をうけた」
「アッペリゥスという男のボルネオ紀行に、オランウータンを生捕りにする話があるが、あれァ、なかなか掴まらないものなんだろう。
山川のようなのろまに、よくそんなことができたな」
「これでもずいぶん殺した……チーズのような猛烈な臭気のある、ドリアンという熱帯果実ことは、猿の大好物で、それが熟すころになると、五十匹、百匹という集団をつくって、ジャングルの奥から出てくる。
手はじめに、伐木して猿どものいる樹を独立させ、大勢で遠巻きにしながら、円陣を狭めて行く……兵隊が木の下まで這って行って、幹に手斧を打ちこむ。
こちらの意図がわかると、枝をゆすって暴れるが、間もなく、ドサリと樹が倒れる。
母猿は子猿を抱えて立ちむかってくるが、目つぶしを食わされ、網をかぶされて、地べたへころがされる……そこを、乳の下を目がけて、銃剣でグサリと突くんだ。
母猿は片手で子供たちをひきよせ、片手でまわりの草をむしって、胸の創口へおしこむ。
そうして、絶望的なようすで、血のついた手を嗅いでみる……母猿の臨終の動作は、おそろしいほど人間に似ているんだ。
あんな良心をおびやかす狩もすくない……猿のほうは利口で、礼節があって、ときには、道徳的にさえ見える。
初級翻訳・蝶の絵 第2話
久生 十蘭
コメント