私は、中戸川とみゑさんの「ひとりごと」を読んだとき、もし自分が遺族だったなら、本人の遺言どおりに燃やしてしまえばよかったのに、と思った。
私は「春日」というこの人の俳句集――日本文学の歴史的な大傑作の一つ――を読んでいたからこそ、「ひとりごと」のような余計なものは燃やしてしまった方がよかった、という考え方なのだ。
大傑作というものは、舞台の裏側の事情なんて知らなくてもいいものだし、それ自体だけでしっかりと成り立っているものだ。だから、作者のくわしい経歴も、名前すらもいらない。私は、今の文学の世界で流行している「裏話を知りたがるような趣味」が、大嫌いだ。
大傑作というのは情け容赦がないものであり、ちっぽけな人間臭さなんかは排除したほうがいい、というのが私の考えである。
あいにく今は手元に「春日」がないし、内容もひとつも覚えていないので、この芸術についてまともに語ることはできない。しかし、これは俳句などというケチなものなんかではなく、まぎれもない「文学」であり、人間の魂の叫びなのだ。
一人の人間のすべてを――精神も、肉体も、魂も、本能も、血も、毒も、涙も、すべてを捧げて一輪の花となり、ふるさとに呼びかけた声なのだ。俳句などという、ヒマな人たちが暇つぶしに作る文字遊びなんかとはわけが違う。
自然をぼんやり眺めて作るようなものを、私は文学だとは思わない。とみゑさんの先生にあたる偉い人たちの十七文字なんて、ただの無駄な文字だと思っているくらいだ。だけど、このお弟子さんは、根っこの部分で文字の質がまったく違っている。一字一字が、人間の必死な切なさと戦いから生まれていて、美しく、ものすごくて、心に響く最高の歌という感じがするのだ。
先生たちの褒め方じゃ全然足りない。これは単なる俳句ではなく、「人間」であり「文学」という高い視点から取り上げるべきものであり、昭和の文学史から絶対にもらしてはならない作品なのだと思っている。
私はこの作者に、一度だけ会ったことがある。
作家の牧野信一(まきのしんいち)に連れられて、イヤイヤながら中戸川の家を訪ねたときのことだ(私は中戸川吉二に何度も会ったことがあったけれど、まったくの俗物だと思っていたし、大嫌いだったから、今でもそうだ)。そのとき、この作者と中戸川さんと、ある男性とある夫人の4人で、トランプの札を引いて賭け事をしていた。
この女の人たちは、冬だというのに赤い縮緬(ちりめん)の着物を片方の肩だけ脱いだ格好で、「チェッ」と舌打ちしたり、べらんめえ口調で、ものすごい真剣勝負を繰り広げていたのだ。
私は、似た者同士のバカな夫婦だなと思って、すっかり軽蔑してしまったのだった。
あるとき、どこかで酔っ払って家に帰れなくなり、深夜に尾崎一雄(おざきかずお)の家を叩き起こして泊めてもらったことがあった。
そのとき、尾崎が「この本を読んでみなよ」と言って、私の枕元に一冊の本を置いていった。
それが「春日」だった。
私は心を打たれた。
あの、賭け事をしていた女の人が書いた本だと知って。
まるで夢を見ているようだった。
酔っ払っていたせいかもしれないと思い、翌日にもう一度読み直してみたけれど、やっぱり芭蕉(ばしょう)の時代からずっと途絶えていた、革命的な「人間による俳句」を見つけ出したのだった。
私は今、この作者のあの情けない、落ちぶれた姿を、当時とは全く違う思いで思い出す。
まったく、この作者の本当の姿は破滅へと沈み込んでおり、どん底に落ち、まるで地獄の庭を歩いていたにちがいない。
この地獄をくぐり抜けなければ、人間の大傑作なんて書けないものなのだ。
そして私は、自分自身にこう言い聞かせるのだ。
「愚かな男よ、だが、もしお前が本当の文学を書くことができたなら、とみゑさんのように、お前の愚かな現実の姿も、神様によって許されるだろう」と。
そして、「とにかく、絶望してはいけない」と。
あるとき、牧野信一と中戸川吉二と私の3人で、銀座の「ハチマキ岡田」という店でお酒を飲んだ。
ほとんどの時間は2人がしゃべっていて、一番若い私はまったく黙ってただ聞いていた。
それは本当にくだらない話だった。
「競馬についての小説が書きたいんだ」(中戸川)だとか、「宇野浩二(うのこうじ)がなんとかいう旅行のときに一等車に乗って大阪へ降りたらしいが、一等車なんて奴の身分に合っちゃいない、二等車くらいがちょうどいい身分だ」などと、それに相槌を打つ奴も大バカ野郎だなと、私は腹が立ってくる始末だった。
するとそのとき、中戸川が急に声を小さくして、こう言ったのだ。
「女房というものは、ただの欲のカタマリだよ。毎晩何度も求められるから、こっちはとても体がもたないよ」
すると牧野信一が、「まったくその通りだ!」とガラガラと大きな声で笑い、「同感だ、うちの女房もそうなんだ」と言った――。
とみゑさん、ごめんなさい。私はあなたをバカにしているわけではないのです。
どうして私が、あなたを辱めることなどできましょうか。
あなたは病気で疲れ果てていた。けれど、欲望のかたまりであり、遊ぶことが命の火だった。
その悲しい命の輝きを、正しい言葉で表現した。
遊んでたわむれる肉体は、あなただけではありません。
あらゆる人間が、あらゆる人間の肉体が、そして魂が、みんなそうなのです。
すべての人間が、人生という遊びをしているのです。
そして、中途半端な悟り方をしたり、憎み合ったりしているのです。
あなたは、自分の命をただ賭けてみただけなのだ。
それにしても、あなたは世界にいくつもない、なんと美しい言葉を生み出したのだろう。
私は、創元社(そうげんしゃ)の編集長だった岡村政司(おかむらまさし)君に会ったとき、「春日」について熱く語り、創元選書というシリーズに入れるよう強くすすめた。
岡村君も大いに興味を持った様子だったけれど、それから1週間ほどたった頃、岡村君は戦争に徴用されて工場で機械にしがみつく労働者になってしまい、まもなく東京は攻撃されて、すべてが焼け野原になってしまった。
しかし、私は「ひとりごと」のようなものは好きではない。
私はむかし、「薔薇は生きてる」という、ある少女が書いた評判の本を読んだことがあったが――「ひとりごと」も大変評判が良いということを立野さんからうかがったが、こういうものが評判を得るということはめでたいことだとは思えない。
ひねくれた人間の生身のひねくれた観察自体などというものは、蟹の泡が蟹の泡自体であるということと同様、ただそれだけの奇妙な景観であるにすぎない。
「春日」という作品は傑作であるが、中戸川とみゑという人間自体が「春日」ではないので、「薔薇は生きてる」などという生意気な泡はむしろ醜悪であり、私はただ嫌な子供だな、と思っただけだ。
ひねくれた観察などは何等文学本来の価値ではないので、ただ日本には珍しいというだけ、珍しい果実は、その果実の中味が真に美味であるということとは関係はない。
私は善人は嫌いだ。
なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあいで世を渡り、真実自我を見つめるという苦悩も孤独もないからである。
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