初級翻訳・親鳥子鳥 第40話

佐々木 邦

向こうは意地悪でめんどくさい問題ばかり選んで出してくるんだから、こちらも――ほら、さっきの英語のコツと同じで、できるだけ自分の価値を高めて高く売りつけるのさ」
と、芳夫さんは4月から先生になるというのに、今のところはまだ学生気質が抜けていない。
いざという時に備えて油断せず、師弟関係についてもまるでストライキのときの裏ワザのようなノリでいる。
ある晩、代数の勉強が終わったあと、
「芳夫さんの大学も、入学試験がすごく難しいんでございますよね。
田舎の知り合いの息子さんが、2回失敗して、今度は3度目の挑戦なんですってよ」
と絹子さんが話しかけた。
「ものすごく競争が激しいんですよ。
5000人から6000人も受けに来ますからね」
「まあ!」
「こうなると、学校の先生たちだけでは手が回りませんから、上の学年の学生たちが試験の手伝いを頼まれるんです。
私も去年の入試で監督員をやって、日当を3円稼ぎました。
2日間で計6円です」
「オホホホホホ!」
「だけどこれは、受験生たちの絞りカスみたいな苦労のお金だから、自分の懐に入れておくのは忍びないって言って、みんなと一緒にさっそく飲みに行っちゃいましたけどね」
「まあ、なんて乱暴な先生なんでしょう!」
「先生じゃないんですもの。
だけど背広を着ていたから、受験生たちは本当の先生だと思って、『先生、時間はあと何分ありますか?』なんてかしこまって聞いてきましたよ。
なんだかちょっと気まずい気持がしたな。
僕たちは100人のグループを担当したんだけど、この中から見すみす70人や80人も容赦なく落とされるのかと思うと、なんだかすごく無慈悲なような気がしてねえ」
と、芳夫さんは代数の問題を解く時なみに、スラスラと語った。
「みんな一生懸命なんでしょうね」
と僕も、入学試験のことだけに我がことのように身に詰まらせて会話に加わる。
「目つきがすっかり変わっているよ。
見ていても息が詰まりそうになる。
だけど監督員の中には、自分が普段の試験でさんざん苦しめられているものだから、面白がっている奴もいるんだよ。
『今度は数学だから、みんな七転八倒だぜ』なんて、ドジョウでも殺すような冷たいことを平気で言ったりしてね」
「かわいそうに……。
源太郎さん、あなたも毎晩しっかり数学を習いなさいよ」
と、絹子さんが心配して注意してくれた。
「できる限りやりますよ」
「でも、受験生の中にもあまり同情できない奴もいるんだよ。
苦し紛れだから、うっかりしていると隣の答案を覗き見たりするんだ。
実際に、答案用紙をごまかしてすり替えようとした奴もいたなあ」
「そんなことをされたらたまりませんね!」
「すぐ前の席の男が出して行った答案をさっと取って、自分の名前を書き込んだんだ。
ちょうどそこへ僕が通りかかったもんだから、慌てて逃げ出していったけれど、よく見たら自分の答案に名前を書き忘れていたんだよ。ということは、最初からその計画で不正をするつもりだったんだな」
「ひどい奴がいるものですねえ」
「だけど学校の方では、あらかじめ答案用紙の一枚一枚に受験番号を印刷してあるから、そんな小細工をしたってすぐにバレてしまう。
あとから調べてみたら、答案をすり替えた方は東京の奴で、すり替えられた方は埼玉の田舎から来た奴だったよ。
ちょうど上野あたりで悪質な客引きが田舎者をカモにするのと同じ手口だね」
「いろんな奴が入り込むから、本当に油断がならないですね」
「6000人って言ったら大変な数だよ。
電車の学校前の路線も臨時の車両を増やして運行するんだけど、もうみんな鈴なり状態さ。
前途有望な若者たちの帽子が、まるで潮の満ち引きのようにわんさか押し寄せてくるところは本当にすごい迫力だよ。
学校の中なんて、針の先を立てる隙間もないほど人でいっぱいになるんだから」「気の弱い連中は、試験場へ入る前にすっかり弱音を吐いてしまうんです」
「いつか活動写真で見たことがありますが、僕もあんなのを見たらいたたまれないと思って落胆しましたよ」
「あれは地方へ宣伝するために、学校側が撮影させたものだからね。
しかし、採点しているところまでカメラに収めたのはちょっと失敗だったな」
「どうしてですか?」
「試験官の答案を見るスピードが速すぎるという苦情が出たんだ。
『一年かけて書いた答案を、あんな風にチャチャッと不親切に扱われちゃ張り合いがないから、もうあそこの試験は受けない』って、毎年落ちる連中が怒っているそうだよ」
「実際にそんなに速く見ているんですか?」
「いや、先生たちはちゃんと丁寧に見てくれているさ。
毎日朝から晩まで調査室にじっと閉じこもって、本当にご苦労なことだ。
採点が終わったあとに神経衰弱になってしまうくらい、念を入れて採点している人だってもいる。
だけど活動写真っていうのは動作が速く進むからさ。
どうにも、チャチャッと適当に片付けているように見えてしまうんだ。
受験者たちにとっては嬉しくないよね。
フィルムを速く回した日には、まるで答案を適当にペラペラとめくりながら点をつけているように見えてしまう。
学校の偉い人たちというのは学者ばかりだから、世間のこういう事情が少しも分かっていない。
今でもあの活動写真を盛んに上映しているみたいだよ」
と、芳夫さんは得意満面だった。
「そんなものなのでございましょうね」
と絹子さんは感心した様子で、とても頼もしそうに未来の結婚相手を見つめていた。
僕は邪魔になってはいけないと思い、すぐに自分の勉強部屋へと引き返した。
お父さんは放任主義なので、僕がこんなに入学試験のために苦労していても、まったく気にとめていない。
ただ、
「あそこの学校には昔の友達がいるから、もしダメだったら何がダメだったのか訊いてやろう」
と言っただけだった。
どうせ縁起でもないことしか言わない。
その代わり、
「願書を出すのが遅れるんじゃないぞ」
とせき立ててはくれた。
「願書は文一くんと一緒に出します」
と僕は答えておいた。
そして学校が休みになった日、文一くんと連れ立って一高(第一高等学校)へ手続きをしに行った。
これは文一くんのお父さんが暦を調べて、一番縁起の良い日を選んでくれたものだった。
なるべくして吉日だったのか、早めに出かけたにもかかわらず、すで大勢の人々が詰めかけていた。
僕たちのような中学生ばかりではない。
とうの昔に学校を卒業し、学生でも生徒でもなく、「受験生」という一風変わった肩書のもと、いかついヒゲを生やした強者たちがやって来ていて、まだ合格もしていないのに下駄を鳴らしながらあたりを威圧するように見回していた。
「大内くん、50人くらいはいるぞ。
しかもみんな、なんだかすごく強そうな連中ばかりだ」
と文一くんはざっと数えて、早くも気後れしていた。
「なに、腕力の試験じゃないんだから大丈夫さ」
と僕も強がりを言ってはみたものの、同じ中学校の同級生で、一足先に来ていた奴が「理科1500何番」という受験票を見せてくれたときには、覚悟の上とはいえ、これは簡単にはいかないと痛感した。
文科のほうはさらに人数が多かった。
文一くんが1825番で、僕が1826番だった。

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