そして、天のめぐりを待たずに自分でせっせと財産を築くことを、あまり快く思っていらっしゃらないようだ。
しかし、腕のいい人間が、正しい道をふまえて財産を築くことの何がいけないというのだろう。
自分に言わせれば、貧乏はそれ自体が悪いことであり、お金持ちであることは良いことだ。
第一、お金の心配がなければ、のびのびと学問に打ち込むことができる。
それに、何より素晴らしいのは、誰の前に出ても、普段通りの気持ちで堂々と向き合えることだ。
貧乏だったころは、どうもうまくいかなかったものだ。
)
彼は、数年前までの苦しかったころのことを思い出して、何度も首を横に振りました。
(あのころは、身分の高い人や大金持ちの前に出ると、なぜかぎごちなく振る舞ってしまったものだ。
もちろんそれは、自分の貧乏くさい姿を恥ずかしがったからではない。
そんなことで恥ずかしがるほど、自分のメンタルは弱くなかったはずだ。
その点では、子路(しろ)にだって負けないという自信を、たしかに持っていた。
ただ自分は、相手に少しでもゴマをすっていると思われるのが嫌だったのだ。
貧乏なのは仕方がないとしても、そのためにいかにも欲しがりそうな顔をしていると思われたらそれでおしまいだし、かといって、礼儀を忘れたような威張った真似もできないから、つい動きがぎごちなくなってしまったのだ。
今から考えると不思議な気もするが、貧乏という現実がそうさせていたのだから仕方がない。
やはり、貧乏なんてしたくないものだ。
)
(それにしても――)
彼は急に胸を張って辺りを見回しながら、心の中でつぶやきました。
(とにかく自分が、誰にもへつらわなかったことだけは、まぎれもない事実だ。
この点において、自分は貧乏に対する態度を間違えなかったと胸を張って言っても構わないだろう。
先生だって、おそらくそれを認めてくださるはずだ。
)
彼はいつの間にか、孔子の家のすぐ近くまで来ていました。
ふと見ると、門の外に、三人の若い門人たちが、うやうやしい姿勢で立っています。
彼らはちょうど門をくぐろうとしたところに子貢の姿を見つけたので、わざわざ足を止めて待っていてくれたようでした。
三人とも、数年前の子貢と同じように、とても貧しい人たちばかりです。
三人は、子貢が二メートルほど近づいてくると、弟子の礼儀として、それは丁寧にお辞儀をしました。
子貢も、それに負けないくらい丁寧に頭を下げ返しました。
そしてほんの数秒間、お互いに「どうぞお先に」と道をゆずり合ったあと、先輩の順番どおりに門をくぐることにしました。
子貢がその中で一番の先輩であることは、言うまでもありません。
門をくぐり終えてから、子貢はこう考えました。
(二、先生はかつて、「貧乏しても不平を言わないことと、お金持ちになっても威張らないことでは、貧乏して不平を言わないほうが難しい」と言われたが、必ずしもそうとは限らない。
お金持ちになっても威張らないことのほうが、かえって難しいとも言えるのだ。
だが、いずれにしても自分は大丈夫だ。
現にたった今だって、お金持ちでありながら威張っていないところを、こうして行動で示せたのだから。
)
母屋に上がったときの彼の顔は、太陽のように輝いていました。
自分で自分の顔がまぶしく感じられるほどでした。
そして、みんなが集まるいつもの薄暗い部屋に入ると、たくさんの弟子の顔が、青白い星のようにチラチラと彼の目の下に揺れていました。
しかし、孔子がまるで未知の世界そのものの જેમ(ように)端然と正面に腰を下ろしているのを見ると、彼は少しあわてた様子できまり通りの挨拶をすませ、自分の席に座りました。
彼のあとをついて入ってきた三人も、部屋の隅にそれぞれの席をつくりました。前からのつづきらしい礼の話が、それから一しきりはずんだ。
今日は、ごく自由な座談会めいた集りだったためか、孔子は別にまとまった話をしなかった。
むしろ、みんなのいうことに聴き入っているという風であった。
しかし、誰かの言葉に少しでも上ずったところや、間違ったところがあると、孔子は決してそのままには聞き流さなかった。
彼の批判はいつも厳しかった。
その厳しさは、しかし、ふんわりと彼の愛を以て包まれていた。
子貢は、言論にかけては、孔門第一の人であったが、今日は不思議にも沈默を守っていた。
第一彼は、人々の語をあまり注意して聴いてはいなかった。
彼の心は、今日途々考えて来たことを、うまい言葉で披瀝して見たい考えで一ぱいだったのである。
「子貢は珍しく默っているようじゃな。」
孔子が、とう/\彼を顧みて云った。
子貢は虚をつかれて、一寸たじろいたが、すぐ、この機を逸してはならないと思った。
彼はこれまで、自分の意見に少しでも不安なところがあると、先ず孔子一人だけの時にそれを述べて、批判を乞うことにしていた。
それは、多くの門人たちに、自分のつまらぬところを見せたくなかったからである。
しかし、今日の彼は、十分自信にみちていた。
自分の考えは実行に裏付けられているという誇があった。
孔子の助言なしに完成した自分の意見を、孔子をはじめ沢山の門人たちに聴いてもらう愉快さを思って、彼は内心得意にならないではいられなかった。
彼はそれでも、
「私は、只今の皆さんのお話が一応すみました上で、少し別のことについて、先生のお考えを承りたいと存じておりますので……」
と、自分を制しながら答えた。
「そうか。……なに、もうそろそろ話題をかえてもいい頃だろう。」
子貢は嬉しかった。
彼は、しかし、すぐには口を切らなかった。
得意になっている様子を人々に見せてはならない、と思ったからだ。
「一たい、君の問題というのは、何かね。」
孔子は、もう一度彼をうながした。
そこで子貢は立上って、彼一流の爽やかな口調で云った。
「私は、このごろ、貧富に処する道について、多少考えもし、体験も積んで来たつもりでありますが、貧にしてへつらわず富んで驕らないというのが、その極致で、それが実践出来れば、その方面にかけては、先ず人として完全に近いものではないかと存じます。」
「いや、それこそさっきからの話の礼と密接な関係をもった問題じゃ。……で、君にはそれが実践出来たというのか。」
「それは、先生はじめ皆さんの御判断にお任せいたします。」
子貢は、しかし、自信たっぷりな面持だった。
そして、さっき彼と一緒に門に入って来た三人の青年に、そっと視線を向けた。
「なるほど、貧富共に体験をつんだという点では、君は第一人者じゃな。」
子貢の耳には、孔子のこの言葉は、一寸皮肉に聞えた。
しかし、孔子がみだりに皮肉をいう人でないことを、彼はよく知っていたので、次の瞬間には、それを自分が讃められる前提であると解した。
「君が、貧にしてへつらわなかったことも、富んで驕らないことも、わしはよく知っている。」
そう云った孔子の口調は妙に重々しかった。
子貢は、讃められると同時に、撲りつけられたような気がした。
「それでいい。それでいいのじゃ。」
孔子の言葉つきはますます厳粛だった。
子貢は、もうすっかり叱られているような気になってしまった。
初級翻訳・論語物語 第2話
下村 湖人
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