初級翻訳・論語物語 第11話

下村 湖人

あれなども、人間の生命力を信ずる者にとっては全く物足りない歌じゃ。
なあに、道が遠いことなんかあるものか。
道が遠いといってへこむのは、まだ思いようが足りないからじゃ。
はっ、はっ、はっ。」
孔子は、いかにも愉快そうに、大きく笑った。
冉求は、このごろにない朗らかな顔をして室を出たが、その足どりには新しい力がこもっていた。
1 子曰く、人の己を知らざるを患えず、其の能くすることなきを患うるなりと。(憲問篇)
2 子曰く、剛毅木訥は仁に近しと。(子路篇)
子曰く、仁遠からんや。我仁を欲せば斯に仁至ると。(述而篇)
3 唐棣(とうてい)の華、偏としてそれ反(ひるが)える。豈に爾を思わざらんや。室是れ遠ければなりと。子曰く、未だ之を思わざるなり。夫れ何の遠きこと之れあらんやと。(子罕篇)

宰予の晝寢

宰予昼寝ぬ。
子曰く、朽木は雕るべからざるなり。糞土の牆は※るべからざるなり。予に於て何ぞ誅めんやと。
子曰く、始め吾の人に於けるや、其の言を聴きて其の行を信ぜり。今吾の人に於けるや、其の言を聴きて其の行を観る。予に於て是を改めたりと。
――公冶長篇――

昼寝をしていた宰予は、いい気持になって眼をさました。
あたりは森としている。
彼は大きく背伸びして、欠伸を一つすると、のろのろと寝台を下りた。
それから椅子に腰をかけて卓に頬杖をつきながら、ぼんやりと窓の外を眺めた。
中庭の石畳には、もう日がかげっている。
雀が二三羽、急にそこから飛び立って、屋根にとまった。
屋根瓦の頂上が黄色い夕日の光を反射している。
その光の中に、雀が点々と真黒にならんだ。
少し寝過ぎたかな、と彼は思った。
そして少し緊張した顔になって耳を澄ました。
遠くの室から、かすかに話声が聞えて来る。
(やはり寝過ぎたのだ。)
そう思って彼は少しうろたえた。
そして椅子から立上ると、そそくさと室を出ようとした。
しかし、彼は戸口のところまで行くと、急に立止まって、眼を床に落した。
(何か口実がないと工合が悪い。)
それからしばらく、彼は足音を立てないように、そろそろと室内を歩きまわった。
歩きながら、何度も首をふったり、うなずいたりした。
そして、再び卓のところに戻って、着物の袖でしきりに眼をこすっていたが、それが終ると、すました顔をして室を出て行った。
廊下を伝って、みんなの集っている室の前まで行くと、彼はもう一度立止まって耳を澄ました。
中ではもうかなり話がはずんでいる。
孔子の声もはっきり聞きとれる。
彼はまた、しきりに首をふった。
が、とうとう思い切って戸をあけた。
話声がぴたりと止まって、みんなの視線が一せいに彼に注がれた。
彼は、足の下から床が地の底に落ちて行くような気がして、膝ががくがくした。
しかし、ともかくも孔子の前まで行って、つとめて平気を装いながら、お辞儀をした。
孔子はちょっと彼の方に視線を向けた。
彼はその機を捉えて何か云おうとしたが、うまく口が滑らなくて、苦しそうに唾を呑んだ。
「そこで……」
と孔子はすぐみんなの方を向いて話し出した。
「1 一緒に学ぶことの出来る人はあっても、一緒に道に精進することの出来る人は少いものじゃ。」
宰予は自分のことを云われているような気がして、棒立ちになったまま動かなかった。
孔子の言葉はなだらかにつづいた。
「また、一緒に道に精進することの出来る人はあっても、いざという時に微動だもしない信念に立って、行動を共にしうる人は稀なものじゃ。」
宰予は、これは自分のことに限ったことでは無いらしいと思って、少し気がゆるんだ。
しかし、すぐそのまま自分の席につくのも変なような気がして、まだ立ったままでいた。
「けれども……」
と、孔子は少し体を乗り出して、
「そこまでは、いわば人間進歩の型じゃ。
どれほど信念が堅固でも、それが型である間はまだ窮屈じゃ。
ほんとうに事を共にするには足りない。
型を脱却し、千変万化する現実の事態に即応して、自由に誤りなく生きうる人であって、はじめて事を共にすることが出来るのじゃ。
だが、そのような人は、めったにあるものではない。」
宰予は、恐ろしく難かしい話のようにも思ったが、一方、臨機応変の才ならば、自分もめったに人には負けないぞ、といったような気もした。
とにかく彼は気がすっかり楽になって、自分の席に着こうとした。
話をやめて、彼の様子を見守っていた孔子は、彼が将に席に着こうとする瞬間に、
「宰予!」
と呼んだ。その声は、あまり高くはなかったが、宰予の胸をどきりとさした。
宰予は、曲げかけた膝を伸して、また棒立ちになった。
「お前には全く用のない話じゃ、あちらで休んでいたらいいだろう。」
みんなが一せいに孔子を見た。
それから視線は次第に宰予の顔に集った。
宰予は、音のしない嵐の中で、体がくるくると舞っているような気がした。
しかし、意識だけは、まだはっきりしていた。
彼は早口に云い出した。
「遅刻いたしまして相すみません。
しかし……」
「しかし?」
と、孔子が鸚鵡がえしに云った。
宰予は二の句をつぐのに、一寸たじろいた。
孔子は畳みかけて、
「もし昼寝の言訳ならば、よした方がいい。
それは過ちの上塗をするばかりじゃ。」
宰予はすっかり狼狽した。
しかし、そうなると、ますます何とか云わないでは居れないのが彼の性だった。
「実は……」
すると孔子の顔は見る見る朱を注いだ。
「宰予!」
と、彼は、宰予だけでなく、みんなの者に思わず頭を垂れさせたほど、悲痛な声で叫んだ。
「お前は過ちを三重にも四重にも犯そうというのか。
それではお前はもう雨ざらしの材木か、ぼろ土で固めた塀も同然じゃ。
雨ざらしの材木には彫刻は出来ぬ。
ぼろ土の塀は、いくら上塗をしても、中から崩れるばかりじゃ。」
そう云って孔子は宰予から眼を放した。
それから急に声を落して、
「つい大きな声を出して、みんなには済まなかった。
もう何もいうまい。
宰予を責めても甲斐のないことじゃ。」
宰予は、ふらふらとなるのを、精一杯こらえて立っていた。
しばらくは誰一人口を利く者がなかった。
うす暗くなって行く室に、暑苦しい空気が一杯にこもって、みんなは森として汗ばんでいた。
「宰予はしばらく一人でよく考えて見るがいい。」
孔子のやさしい声が沈默を破った。
しかし、みんなはまだ緊張をつづけていた。
その中を、宰予は沢山の眼に見送られながら、悄然として室を出た。
宰予の足音が消えると、孔子は、いかにも淋しそうに眼を伏せながら云った。
「これまで、わしは、みんなめいめいに口でいう通りに実行しているものとばかり信じていたものじゃ。
しかし、もうこれからは、そうは行かない。
いう事と行う事とが一致しているか、はつきりと突きとめないと、安心が出来なくなってしまった。
宰予のようなこともあるのでな……しかし人を疑うのは淋しい気がするものじゃ。」
門人たちは首をたれたまま、身じろぎもしなかった。
「2いつもいうことじゃが過って改むるに躊躇してはならぬ。
過ちは誰にもある。
それは一時の事じゃ。
しかし、過って改めなければそれこそ救いがたい過ちで、生涯を過り通すことになってしまう。

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