初級翻訳・透明人間 第11話

海野 十三

かれはさっきから目のまえの草のうえに、二足の長靴をきちんとならべて、つくづくと見いっていた。
片方はいままではいていた長靴で、片方はさっきもらったばかりの長靴だ。
いままでの分は、足にぴったりとしてはき心地はよかったが、ひどい古靴で、雨がふると、じくじくと水がしみこんできた。
もらったばかりのほうは、古くてもなかなかりっぱな品だったが、かれの足にはすこし大きすぎた。
「どっちをはいたらいいのかな? 水のしみこむのはいやだし、だぶだぶのやつをはくのもいやだし」
トーマスは、さんさんとかがやく太陽の下で、いつまでも、どちらをはくか迷いつづけて、ぼんやりと靴をみながらすわっていた。
「どちらも長靴だが、古ぼけてるな」
トーマスのうしろでふいに人の声がした。
トーマスは、ふりかえりもせずに、
「そうなんですよ。
どっちもいただきものですがね。
いままでのやつは水がはいるんです。
あっしは、いつも靴はこのへんでいただいておるんですよ。
このあたりの人たちは、おうようで情ぶかいですよ」
「ばかを言え、このへんのやつらはみんないやなやつらばかりだ!」
「そうですかね。
だが、わたしはそう思いませんね。
この靴だっていただきましたしね」
トーマスは、こう言ってふりかえった。
ところが、どうしたわけだろう。
いまのいままでしゃべっていた男が、どこにも見あたらないのだ。
「だんな、いったいどこにいらっしゃるんです?」
かれは、きょろきょろと見まわした。
風で木の枝がゆれているばかりで、だれひとりいない。
「おやおや、おや? おれはよっぱらったのかな? それとも……」
「こわがらなくてもいいよ。おれはちゃんといるんだから」
「ひゃあ! だんな、どこにいらっしゃるんですか、こわがるなって言われたって、こわくなりますよ」
「こわがらなくてもいいと言ってるじゃないか、おちつけよ。おまえにおれの姿がみえなくても、いることは、ちゃんとここにいるんだから」
 トーマスは、あわてて丘の上をぐるぐる見まわした。
どこを見ても人っこひとりいなかった。
生きているものは、あたりのこずえを飛びまわっている小鳥だけだ。
「助けてくれ! おれはどうかしてしまったよ。空から声がふってくるなんて、ただごとじゃねえや」
「おちつけ、おれは化けものじゃないよ。それに、おまえが気がちがったんでもない。おれのいうことを信用しろ。でないと、石をぶつけるぞ」
「だって、だんな、どこにおいでなんです?」
 トーマスの声がおわるかおわらないかに、小石がひょいと地面から舞いあがったと思うと、びゅっと風をきってかれの肩をめがけてとんできた。
「ひゃあ!」
 トーマスがわめいて逃げだそうとしたとたん、目に見えないなにかに、どすんと力いっぱいおしとばされて、ひっくりかえってしまった。
「さあ、これでもおれのいうことを信じないか?」
 トーマスは、やっとこさで起きあがると、草の上にすわりこんで、ふてくされてこたえた。
「どうでもしろ、おれにはなんのことやら、さっぱりわからねえや。ひとりでにとんでくる石だの、空中からふってくる声だの……気味のわるいことはやめにしてもらいたいね」
 すると、空中の声はやさしくなり、トーマスをなだめるように、
「おれの姿がおまえに見えないからって、おれは怪しい人間ではないんだ。ただわけがあっておれの姿は空気とおなじで、すきとおっていてだれにも見えないんだ」
「えっ、おれのことをからかわないでくだせえよ。いくらおれがこじきだからって、ばかにしてもらいますまい。すきとおって姿のない人間なんて、いるわけがありませんよ」
「ところがいるんだよ。いま、おれの体にさわらせてやるからな」
 あっけにとられているトーマスの手が、だれかの手につよくにぎられた。
トーマスは、おずおずしながら手さぐりであたりをなでまわすと、なるほど、たくましい男の体が、はっきりと手ざわりでさぐれた。
「こいつはおもしれえや、だんなはほんとにいたんですね。だが体がすきとおってしまったなんて、ずいぶんふしぎですねえ。だんなの腹の中には、なにもはいってないんですか? パンだのチーズだの食べれば、腹の中に見えるでしょう」
「それはそうだよ、消化してしまうまでは見えてるよ」
「なるほど、しかし、どうしてそんなふしぎな体になりなさったのですかね?」
「それにはながい話があるんだ。しかし、そんなことをおまえに話してきかせたって、わかりはしないよ。それよりおれがこうしておまえのあとをつけてきたのは、話したいことがあるんだよ」
「おれにたのみたいことですって……いったい、それはなんですね?」
 トーマスは、目をくりくりさせてきいた。
「じつは、おれははだかなので、いろいろのことでこまりきっているんだ。大いそぎで着る物を手にいれてもらいたいんだよ。それから寝る所とな――ほかにもいろいろやってもらいたいことはあるが、とりあえずそれだけを、おまえの力でぜひなんとかしてくれ」
「着る物を手にいれろとおっしゃるんですか、なんだか、あっしは頭がぐらぐらしてきたようだ。すこし落ちついて、ゆっくりと考えさせてくだせえ。だれひとりいない丘からいきなり声がして、なんにも見えねえのに、さぐればたしかにだんながいらっしゃる。体がすきとおっているんだそうだが……そしてこんどは着物とねる所を手にいれろとおっしゃる。あっしは、すっかりめんくらってしまいましたよ」
「いまさら、ぐずぐず言うな。透明人間のわしが、おまえをえらんだんだ。おれのために働いてくれ。そうすればお礼はたっぷりやるよ。わかったな」
 そして透明人間は、大きなくしゃみをした。
「そのかおり、おまえがおれをうらぎってみろ、どんなことになるか、おもい知らせてやるからな」
 男は、言いおわってぽんとトーマスの肩をたたいた。
トーマスは、きゃっと恐怖のさけび声をあげ、
「と、とんでもねえ。うらぎったりするものですか……心配しねえでも大丈夫ですよ。あっしにできることなら、なんでもいたしますよ――なんなりと言いつけてくだせえ」
 トーマスは、気のどくなほど、はげしくふるえながら言った。

怒る透明人間

酒場の中

 その日は復活祭だった。アイピング村では、朝はやくから村じゅうの年よりも若いものも晴着を着かざって、うきうきしていた。黒馬旅館では、亭主のホールと雑貨屋のハクスターが、とりとめのないばか話をだらだらとつづけていた。
そこへ、あらあらしくドアをおして、ひとりの男がはいってきた。
古びたシルクハットを頭にのせた、ずんぐりとした小がらの男で、ひどく、しんけんな顔つきで、わきめもふらず酒場にはいってくると、つかつかととおりぬけて、おくの客部屋のほうへ歩いていった。
浮浪者のトーマスだ。
そのすばやさときたら、はっと気づいたときには、もう男はおくの客部屋のドアをあけていた。
「おっと、お客さん、お客さん、そこはいまではお客さん用に使っていないんですよ。
もどってきてくだせえ」
 ホールが、まのびのした調子でどなった。
男はへんじもしなかったが、まもなく、むっつりした顔でもどってくると、酒場にきて、ききとれないほどひくい声で、酒を注文して飲みはじめた。

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