いそがしく手まねきされるものですから、ベッドをおりて、さいわい、昼間の着物をきていたので、そのまま入り口のふたりに近づきました。
「ここにいてはあぶない。あんぜんなところへ、おつれします。おおいそぎです。あとで、わけはゆっくり話します。」
中村係長が、文代さんの耳に口をつけて、あわただしくささやいたのです。
そして、文代さんは、何を考えるひまもなく、ふたりに両手をひかれて、裏庭のほうへ、いそぐのでした。
ちょうどそのころ、裏のコンクリート塀のそとに、またしても、みょうなことがおこっていました。
ふたりの刑事は道化師をおっかけて、裏のくぐり戸をあけはなしたままにしておいたのですが、そのくぐり戸を、何か小さな黒い影が、目にもとまらぬ早さで、すべりだすと、道化師が逃げたのとははんたいの方角へ、塀のかげをつたいながら、チョコチョコとすばしっこく、走っていくのです。
百メートルほど、走ると、そこの町かどに、一台の自動車がとまっていました。
中には運転手がひとりいるばかりです。
ヘッド・ライトは消してありますし、車内の電灯もついていないので、運転手のすがたも見わけられないほどです。
一寸法師のような黒い影は、手に四角なブリキカンのようなものを、さげていました。
そして、自動車のうしろへ近づくと、黒い影は、車体の下へもぐりこむように見えましたが、それもほんのわずかのあいだで、やがて自動車をはなれて、サッとそばの電柱のかげに、身をかくしました。
ふしぎなことに、そのときには、黒い影の手には、ブリキカンがなくなっていたのです。
一寸法師の影が、電柱のうしろにかくれたかと思うと、探偵事務所の方角から、三人のおとなの影が、いそぎ足で近づいてきました。
まん中にいるのは女のようです。
それをふたりの男が、りょうほうからはさむようにして、あるいてくるのです。
そして、自動車のそばによると、いきなりドアをひらいて、つぎつぎにその中へはいってしまいました。
すると、自動車はエンジンの音をたてながら、スーッとすべりだして、見るみるうちにやみの中へ、すがたを消していきました。
ヘッド・ライトを消したままです。
それを見おくるようにして、電柱のかげから、さっきの一寸法師のような黒い影があらわれ、そのまま探偵事務所のほうへ走りだしました。
目にも見えないすばやさで、チョコチョコと走って、たちまちもとのコンクリート塀のくぐり戸から、事務所の庭にはいっていったのですが、そのとき、ヒョイとふりむいた顔を、街路灯の光がまざまざと、照らしだしました。
それは、小林少年でした。
リスのようにすばしっこい、少年探偵の小林君でした。
小林君は、あの自動車の下にもぐりこんで、何をしたのでしょう。
また、小林君がさげていたブリキカンのようなものは、いったい、なんだったのでしょう。
じつは、この小林君のふしぎな行動がもとになって、少年探偵団の大活躍がはじまるのですが、それはもっとあとのお話です。
場面は一転して、こんどはやみの中に消えていった、怪自動車の内部です。
その座席には、明智夫人の文代さんが、中村係長と黒川記者に、りょうほうからはさまれて、腰かけていました。
さっき、小林少年の目の前で、自動車に乗った三つの黒い影は、この人たちだったのです。
自動車が走りだしたかと思うと、文代さんは、「アラッ!」とするどいさけび声をたてました。
そして、いきなり身もだえをはじめたのです。
むりもありません。
自分をまもってくれるとばかり思っていた、中村係長と黒川記者が、おそろしいことをはじめたからです。
黒川は文代さんの首のうしろから手をまわして、手ぬぐいのようなもので、文代さんの口のへんをしばろうとしているのです。
声をたてさせないためです。また、中村係長は、文代さんが身動き一つできないように、その体をグッと強く抱きしめていました。
ふたりの大人の男性が両側からかかってくるのですから、かよわい文代さんはどうすることもできません。
あっという間にさるぐつわをはめられ、ぐったりとなってしまいました。
いったい、これはどうしたことでしょう。
文代さんをまもるために探偵事務所にとまった、警視庁の捜査係長と大新聞社の記者が、いまやおそろしい敵となって、文代さんをどこかへ連れ去ろうとしているのです。
このふたりは、怪老人の魔法にかけられてしまったのでしょうか。
そして、にわかに怪老人の手下になってしまったのでしょうか。
黒川記者は、文代さんの口をしばってしまうと、座席から腰を浮かして、自動車のドアに手をかけました。
「じゃあ、いいね。たのんだよ」
中村係長にそう言い残して、パッとドアをひらきます。
すると運転手は気が利いて、自動車のスピードをグッとゆるめました。
それを待って、黒川記者はヒラリと闇の中に飛び降りてしまったのです。
こうして、文代さんはどこへとも知れず、連れ去られました。
いったい、その行き先はどこだったのでしょうか。
そして、中村係長と黒川記者は、どういうわけでこんな悪事をはたらいたのでしょう。
また、小林少年がそれと知りながら文代さんを助けもせず、妙なブリキカンのようなものを自動車の車体の下にとりつけたのは、そもそも何を意味するのでしょうか。
それらの秘密は、まだ暗闇にとざされています。
しかし、まもなくすっかりわかる時がやってきます。
それも、さして遠いことではありません。
さて、お話はまた一転して、その夜、別の場所でおきたもう一つの不思議な事件へと移ります。
**樋をはう人**
ちょうど、文代さんが怪自動車に乗せられ、どこへとも知れず運び去られていたころ、港区の南の方にある、焼け跡の原っぱにかこまれたさびしい場所を、パトロールのおまわりさんがふたり連れで巡回していました。
「このへんは、ちっとも家が建たないね」
「うん、管内でもいちばんいやな場所だな。ことに、あそこに見える焼けビルは、なんだかえたいのしれない建物だ。絶えず住む人がかわっている。このへんでは、化けもの屋敷っていううわさがたっているほどだよ」
「ふーん、化けもの屋敷か。そういう家にかぎって、悪人に利用されるもんだ」
「そうだよ。だからぼくは、あの建物にはいつもとくべつに注意しているんだ……オヤッ、なんだか動いているぜ。ごらん、あの焼けビルのかどを、黒いものがだんだん下へおりてくるだろう」
ふたりはハッとして、そこに立ちどまりました。
それは、焼け跡の原っぱに黒い大入道のようにそびえ立つ、三階建ての焼けビルでした。
外側は化粧れんががはげおちたままのきたない建物ですが、内部には手入れがしてあるらしく、何かの会社の事務所になっていて、夜も小使いの一家がそこにとまっているようすでした。
見ると、その建物の三階の窓がひらいて、そこからはいだしたのでしょう。
ひとりの男が、長い雨どいをつたってだんだん下へおりてくるのです。
この真夜中に、焼けビルの雨どいをはう男——じつに不思議な光景です。
ビルに住んでいる人が雨どいなどつたうはずはないのですから、さしずめ、この男は泥棒とでも考えるほかはありません。
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