「いったい本当に我々と同じ人間なのだろうか」と、さらに重ねて尋ねると、服などは世の中の普通のものと変わらないが、ただ目の色が少し違っているのだそうだ。
一回の市と次の市の間に一回か二回、同じような人間が四、五人集まってきて、何か話を交わし、やがてどこかへ出かけていくという。
食料などを外から持ち帰ってくるのを見ると、町へも出かけることがあるのだろう。
「こうして話している間にも、今にまたそこへ帰ってくるかもしれない」と猟師が言ったので、あまりの恐ろしさに猟師も怖くなり、逃げ帰ってきたということだ。
あれは二十年ほども前のできごとだったかと思われる。
○一市間とは、遠野の町の市の日と次の市の日の間隔のことである。
月に六度の市が開かれるので、一市間とはすなわち五日間のことである。
八 黄昏時(たそがれどき)に、女や子供が家の外に出ていると、よく神隠しにあうということは他の国々と同じである。
松崎村(まつざきむら)の寒戸(さんと)というところの民家で、若い娘が梨の木の下に草履を脱いだまま行方不明となり、三十年あまりが過ぎたある日、親戚や親しい知人たちがその家に集まっているところへ、ひどく老いさらばえたその女が帰ってきた。
「いったいどうやって帰ってきたのか」と尋ねると、「人々に会いたかったから帰ってきたのだ」と答えた。
「それならまた行ってくる」と言い残し、再び跡形もなく姿を消してしまった。
その日は風が激しく吹き荒れる日であった。
だから遠野郷の人々は、今でも風が騒がしい日には、「きょうはサムトの婆(ばあ)が帰って来そうな日だ」と言うのである。
九 菊池弥之助(きくちやのすけ)という老人は、若いころに駄賃付け(荷物を運んで賃金をもらう仕事)を生業としていた。
笛の名人で、夜通し馬を追いながら歩く時などは、よく笛を吹きながら進んでいったものだ。
ある薄月夜のこと、大勢の仲間とともに海側へ越える境木峠(さかいぎとうげ)を行こうとして、また笛を取り出して吹き鳴らしつつ、大谷地(おおやち)というところの上を通り過ぎた。
大谷地は深い谷で白樺(しらかば)の林が生い茂り、その下は葦(よし)などが生えて湿った沢となっている。
この時、谷の底から何者かが高い声で「面白いぞー」と呼びかけてきた。
一同はみな一様に顔色を失い、逃げ出したということである。
○ヤチとはアイヌ語で湿地の意味であり、内地にも多くある地名である。
また「ヤツ」とも「ヤト」とも「ヤ」とも言う。
十 この男がとある奥山に入り、キノコを採ろうと小屋を建てて泊まっていたところ、深夜に遠くのほうで「きゃー」という女の叫び声が聞こえ、胸をどきりとさせることがあった。
里へ帰って調べてみると、まさにその同じ夜、同じ時刻に、自分の妹である女がその息子によって殺されていたのであった。
十一 この女の家は母と子一人の二人暮らしであったが、嫁と姑(しゅうとめ)の仲が悪くなり、嫁はたびたび実家へ行ってはなかなか帰ってこないことがあった。
その日も嫁は家にいて横になっていたが、昼頃になると突然、息子が「ガガ(母)はとても生かしておくわけにはいかない、今日は絶対に殺してやる」と言い出し、大きな草刈り鎌を取り出して、ごしごしと研ぎ始めた。
その様子はどう見ても冗談とは思えなかったので、母親はいろいろと理由をつけて詫びたものの、息子は少しも聞き入れない。
嫁も起き出して泣きながら止めようとしたが、息子はまったく従う気配もなく、やがて母親が逃げ出そうとする気配を察すると、前後の戸口をすべて鍵で閉ざしてしまった。
「用を足しに行きたい」と言えば、「自分で外から便器を持ってきてここでやれ」と言う始末であった。
夕方にもなると、母親もついに諦め、大きな囲炉裏の脇にうずくまってただ泣いていた。
息子は入念に研ぎ澄んだ大きな鎌を手に持って近づいてくると、まず左の肩口めがけて切りつけようとしたが、鎌の刃先が囲炉裏の上の火棚(ひだな)に引っかかってうまく斬れなかった。
その時に母親は、かつて深山の奥で弥之助が聞きつけたような叫び声をあげた。
二度目には右の肩から切り下げたが、それでもまだ息絶えぬところへ、村人たちが驚いて駆けつけ、息子を取り押さえてすぐに警察官を呼んで引き渡した。
警官がまだ(サーベルではなく)警棒を持って歩いていた時代のことである。
母親は、息子が捕らえられて連行されていくのを見て、「滝のように血が流れる中からでも、私は恨みなど抱かずに死ぬのですから、孫四郎(まごしろう)はお許しください」と言った。
これを聞いて心を動かされない者は一人もいなかった。
孫四郎は道中でもその鎌を振り上げて巡査を追い回したりなどしたが、「狂人である」として放免されて家に帰り、今も生きて里にいる。
○ガガとは方言で母親のことである。
十二 土淵村山口(つちぶちむらやまぐち)に新田乙蔵(にったおとぞう)という老人がいた。
村の人々は「乙爺(おとじー)」と呼んでいる。
今は九十歳に近く、病に倒れてまさに亡くなろうとしている。
長年、遠野郷の昔話をよく知っており、「誰かに話して聞かせておきたい」と口癖のように言っていたが、あまりにも家が貧しく臭気があったので、立ち寄って話を聞こうとする人は誰もいなかった。
各地の館の主の伝記、家々の盛衰、昔からこの郷に伝わる数々の歌をはじめとして、深山の伝説やその奥に住む人々の物語などにおいて、この老人はもっとも熟知していた。
○惜しいことに、乙爺は明治四十二年の夏の初めに亡くなってしまった。
十三 この老人は数十年の間、山の中に一人で住んでいた人である。
良いうお家柄だったのだが、若いころに財産を失ってからは世間への思いを断ち切り、峠の上に小屋を建てて、甘酒を行き交う人々に売ることで生計を立てていた。
駄賃付けの仲間たちはこの翁(おきな)を父親のように慕い、親しんでいた。少しでもお小遣いの余りがあると、町へ下りていってはお酒を飲みます。
赤い毛布で作ったはんてんを着て、赤い頭巾をかぶり、酔っぱらうと町の中を踊りながら家に帰るのですが、お巡りさんもお咎めなしでした。
いよいよおじいさんになってから、自分の生まれ故郷に帰ってきて、さびしいくらしを送りました。
子供たちはみんな北海道へ行ってしまい、おじいさんは一人ぼっちでした。
一四 村には必ず古い家が一つあって、「オクナイサマ」という神様をおまつりしています。
その家は「大同(だいどう)」と呼ばれています。
この神様の像は、桑の木を削って顔が彫られており、四角い布の真ん中に穴を開けて、そこへ上からスポッと通して着物のように着せています。
お正月の十五日には、村の小さな地域の人たちがこの家に集まってきて、オクナイサマをおまつりします。
また、「オシラサマ」という神様もいます。
この神様の像もオクナイサマと同じように作られていて、こちらも正月の十五日になると村の人たちが集まっておまつりをします。
そのお祭りのときには、神様の顔に白いお化粧の粉(白粉)を塗ることがあります。
大同の家には、必ず畳一畳分の小さなお部屋があります。
この部屋で夜に眠る人は、いつも不思議な目にあうのです。
コメント