初級翻訳・鉄塔の怪人 第2話

江戸川 乱歩

夕闇はますます深くなって、まわりからヒシヒシと夜が迫ってくるのが感じられるのでした。

【深夜の妖虫】

そんなことがあって数日後、真夜中の銀座通りに、じつに前代未聞の恐ろしい事件が起こりました。
中学二年の山村志郎少年は、銀座裏の小さなお菓子屋さんの二階に部屋を借りて、お母さんと二人きりで住んでいました。
お母さんは裁縫が上手なので、あるデパートの仕立て部に勤めているのです。
ある晩のこと、真夜中に山村くんのお母さんが急にお腹を痛めてひどく苦しむので、少年はお医者さまへ電話をかけるために、近くの公衆電話へ駆けつけました。
幸い、お医者さまはすぐ来てくださるというのでひと安心し、公衆電話を出ようとすると、ガラス戸の外に何か黒い木の枝のようなものが動いているのに気づきました。
変だなと思ってドアを開くのをためらっていると、木の枝のようなものが、ガラスとすれすれのところに近づいてきました。
よく見ると、それはピカピカと黒光りして光っている棒のようなもので、その棒の先が細くなっており、その先にネズミのしっぽぐらいの太さの小枝のようなものが何本もクシャクシャと生えているのです。
そして、そのネズミのしっぽみたいなものが、てんでに、まるでムカデの足のように動いているのです。
山村くんはそれを見ると、ゾーッと怖くなって立ちすくんでしまいました。
すると、黒い棒のようなものがだんだん伸びてきて、それが鉤(かぎ)のように曲がっていることがわかりました。
棒は根元のほうほど太くなっているのですが、それがすっかり現れると、次には何か真っ黒な、びっくりするほど大きなものがガラスの向こうに姿を現し、二つのギョロギョロした目で山村くんをにらみつけました。
いや、そればかりではありません。その黒くて巨大なやつは、恐ろしいほど真っ黒な、ヤリのようなツノを持っていました。
太さは根元のほうで直径五センチもありそうでしたし、長さは五十センチもあろうかというほどです。
その黒光りする尖ったツノで、今にも公衆電話のガラスを突き破ろうとしているのです。

「ワワワワ……!」

山村少年は、言葉にならない叫び声を上げました。
そしてそのまま気を失い、公衆電話のコンクリートの床に、へなへなと崩れ落ちてしまいました。
しばらくして意識を取り戻すと、もうガラスの外には誰もいません。
「今の出来事は夢だったのだろうか」
山村くんは恐る恐るガラス戸を開けて、外をのぞいてみました。
何もいません。
そっと外へ出てみました。そこにあるのは、シーンと寝静まった町だけです。
山村くんは自宅のほうへ駆け出しました。
そして曲がり角まで来て、ひょいと銀座の表通りをのぞくと、ずっと向こうの角に、妙なものがうごめいているではありませんか。
山村くんは、ギョッとして立ちすくんだまま、もう身動きもできなくなりました。
やはり怪物がいたのです。
真夜中でネオンは消えていますが、街灯はついています。
その光に照らされて、巨大な怪物の背中が、まるで漆(うるし)のように黒光りして光っているのです。
それはカブトムシを万倍も大きくしたような、見るもおぞましい化け物でした。
まさに「カブトムシのキングコング」です。
頭の先からニューッと太いツノが生えた、一角獣のような怪物でした。

そのとき、山村少年の後ろから「コツコツ」と靴の音が聞こえてきました。
またしてもギョッとして振り向くと、それは化け物ではなく、パトロール中のおまわりさんでした。
おまわりさんは、まだ怪物に気づいていません。
山村くんはそれを見るとホッと安心して、いきなり「ワーッ!」と泣き声を上げながら、おまわりさんの腰にすがりつきました。
不意を突かれておまわりさんもびっくりしましたが、山村くんがしっかりすがりつきながら片手で指さすほうを見ると、今度はおまわりさんが石のように立ちすくんでしまいました。
しかし、このおまわりさんは勇気のある人でした。逃げ出すようなことはしません。
山村くんに家へ帰るようささやいておいて、自分は一人で怪物の方へ、用心しながらじりじりと近づいていきました。

山村少年は、そんな時でもお母さんの病気のことは忘れていなかったので、そのままよろめきながら家に帰りました。しかし、下のお菓子屋さんの人に怪物のことを話したため、たちまち騒ぎが大きくなりました。
深夜の銀座にカブトムシの怪物があらわれたという噂は、隣から隣へと伝わり、屈強な男たちが手に手にこん棒などを持って、家の外へ飛び出してきたのです。
その人たちが山村少年におしえられた場所へ駆けつけたとき、夜の静けさを破って「パーン!」とピストルの音が響き渡りました。
おまわりさんが、怪物めがけて発砲したのです。

そのとき、怪物はもう銀座の大通りへ這い出していました。
それを追いかけるおまわりさん。騒ぎを聞きつけて近くの交番から飛び出してきたおまわりさんが二人、そのあとから走っています。
それからずっと遅れて、こん棒などを持った町の男たちが、恐る恐る続いています。その人数は、今や十五、六人に増えていました。
真夜中の二時ごろですから、銀座にはまったく人通りがありません。
電車の通らないレールだけが銀色に光って、どこまでも続いています。
あの人通りの多い銀座が、夜中にはこんなにも寂しくなるのかと、驚くほどでした。昼間がにぎやかなだけに、夜の寂しさは恐ろしいほどです。
その人けのない大通りの、銀色の電車のレールの上を、クマのように大きなカブトムシの化け物が、たくさんの足を忙しく動かして、恐ろしい速さで走っているのです。

二度、三度とピストルが鳴り響きました。
しかし、怪物は鉄でできているのでしょうか、弾が当たっても「カーン」と跳ね返るばかりです。
そのとき、深夜の客を乗せた一台の自動車が、向こうから走ってきました。
その自動車の運転手は、人通りのない町を油断して運転していたのですが、ふと気づくとヘッドライトの光の中に恐ろしい怪物の姿を見て、びっくり仰天してしまいました。
とっさには何ものとも見分けられませんが、とにかく真っ黒に光った大グマほどもあり、長い足が何本も生えた怪物です。
二つの大きな目が、ヘッドライトを受けてギョロギョロと光っています。そのうえ、頭のてっぺんからは、恐ろしいツノが突き出しています。
その怪物が、グッと頭を下げて、鋭いツノで自動車に向かって突撃してくるように見えました。
後ろの座席にいた紳士も怪物に気づき、「ああっ!」と叫んだまま、クッションの上にうつぶせになってしまいました。
遠くから見ている人たちは、自動車がカブトムシにぶつかれば、いくら怪物でもきっと傷つくだろうと、手に汗を握って見守っていました。しかし自動車は、怪物の前五メートルほどまで迫ったところで、「キーッ!」という音を立てて急停車しました。
運転手がブレーキを踏んだのです。
すると次の瞬間、実に奇怪なことが起こりました。
巨大なカブトムシは、前から突進してくる自動車をものともせず、そのままの速度で走り続けていたのですが、自動車が急停車しても少しもスピードを緩めることなく、グングンと突き進んで、いきなり自動車の前部に這い上がったのです。

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